9.

 俺は彼に背を向けて駆け出し、最悪な気分で家路に着いた。
家へ辿り着いた時、もう外は真っ暗になっていた。空には月もなく、俺の周りはすべてが真っ暗だった。
そして……俺は誰もいない真っ暗な家へ入った。門灯にも家の中にも、一つも明かりは見当たらなかった。 落ち込んでいる時に電気のついていない家へ帰るのはひどく淋しかった。
茶の間へ行って電気をつけると、テーブルの上に小さなメモと千円札1枚が置いてあった。 メモには母さんの字でこう書かれていた。

優二へ
お祖母ちゃんが入院したので、母さんと良樹はお見舞いに行ってきます。
帰りは少し遅くなると思います。
今夜は父さんも仕事で遅いから、何か好きな物を買って食べなさい。

 俺はそのメモをすぐに破って捨てた。
いろんな事が頭に浮かんで……悲しくてたまらなかった。
ベランダを覆うピンクのカーテンも、カーペットの焼け焦げも……とにかくすべてが悲しかった。
俺はテーブルの上にあった千円札を握り締め、すぐに自分の部屋へ向かった。 ベッドに潜り込んで泣きたかったからだ。

 自分の部屋へ行くと明かりもつけずにベッドへ倒れ込み、俺は枕に顔を埋めてガキみたいに大泣きした。
マサトに会って以来、泣いてばかりいた。
今まで全然意識していなかった事が急に心と体に圧し掛かり、どうしようもないほど苦しくなった。
俺は自分を助けてくれた優しい彼を好きになり、手をつないだり会って話がしたいと思っていた。 それは自然発生的に生まれた感情で、一点の曇りもない純粋な気持ちだった。
でも今日由美子という女が現れるまで、俺は大事な事を忘れていた。
俺は男で、彼も男だという事だ。
おかしな話かもしれないけど、俺は本当に今日までそんな事を全然意識していなかった。 男とか女とか、そんな事を通り越してマサトを好きだという気持ちが先行していたんだ。
だけど……今日になってやっと分かった。
彼を好きになってもどうにもならない。だって……俺は男で、彼も男だから。

 今日の俺は本当に最悪だった。 俺は彼が抱いている本に嫉妬し、女である事を理由に由美子へ嫉妬した。
俺は枕を抱えてこう思った。女に生まれてくればよかった……と。
俺には遠い昔にも今と同じような事を考えた記憶がある。 もう忘れかけていたのに、今頃になってあんな大昔の事を思い出すとは夢にも思わなかった。
その感情が生まれたのは5歳の頃の事だった。
まだ弟が生まれる前。 母さんは弟の良樹がお腹にいた時、やがて生まれてくる子供が女の子である事を強く望んでいた。
「男の子はつまらない。今度は絶対に女の子が欲しいの」
あの頃母さんは仲のいい友達や近所のおばさんにいつもそう言っていた。 5歳の俺は希望を持った声でそう話す母さんの顔をいつも下から見上げていた。
今思えばすごくガキっぽいけど、あの頃の俺は妹が生まれる事をすごく恐れていた。 それまで自分1人に注がれていた母さんの愛情が全部妹に持っていかれるんじゃないかと不安に思っていたからだ。
だから……生まれてきたのが弟だと知った時は心の底からほっとした。 でも、母さんは遅く生まれた弟をすごくかわいがった。 俺も弟も男なのに、母さんはいつも弟の方を大事にした。
そして俺は思った。 男の子はつまらないという母さんの言葉は、男の子全般ではなく俺という人間を指して言っていたんじゃないだろうか……と。
今でも思う。母さんはきっと俺を本当につまらない人間だと思っていたんじゃないだろうか。 だから、次に生まれてくる子供は俺以外なら誰でも良かったんじゃないだろうか。
「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
とにかく、弟が生まれて以来母さんは俺にそれしか言わなくなった。
5歳の俺は自分よりも小さな弟をかわいがる母さんの背中を見つめて、こんなはずじゃなかったといつも思っていた。
そして、いつからか女に生まれてくればよかったと思うようになった。 俺が女だったらきっと母さんは弟より俺の方をかわいがってくれたんじゃないかと……そう思うようになった。
その思いは、小学校へ上がる頃までずっと続いてた。 でも……本当は今だって心のどこかにそういう気持ちが残っている。
今日だって、母さんは弟1人を連れてお祖母ちゃんのお見舞いに行った。 母さんはきっと弟と2人だけで食事を済ませて帰ってくるだろう。
長男の俺にはしわくちゃになった千円札1枚を残して……

 俺は小学校の頃から悲しい時はいつもこうして1人で泣いた。
でも弟はそうじゃない。 あいつは小学6年になった今でもうまくいかない事があると家族の前で平気で泣き出す。
それはきっと、そうすれば母さんが抱きしめてくれると分かっているからだ。

 涙で濡れた枕も、タオルケットも、部屋の空気も俺の体も、すべてが冷たかった。
俺は寝返りを打ち、濡れた枕に頬を乗せてゆっくりと目を閉じた。 目を開けていても閉じていても真っ暗な事に変わりはなかったけど、それでも目を閉じた。
そして、卑猥な落書きがいっぱい描かれたトイレの個室で俺を抱きしめてくれたマサトの事を考えた。
遠慮がちに俺を抱き寄せたあの大きな手の感触。
俺をほっとさせてくれた温かい胸の感触。
それを思い出すと、冷え切っていた頬が上気してきた。そして温かくなったのは頬だけじゃない。
駅のトイレで泣きじゃくりながら……あんなに恥ずかしい思いをしながら必然的に彼に見られてしまった男の証し。 それが今、どうしようもなくマサトの温もりを欲している。
俺は体の力を抜き、ジーンズを脱いでマサトの事を考えながらマスターベーションをした。
誰もいないせいか、家の中は静か過ぎた。
ベッドの軋む音と、指を擦り付ける摩擦音。そしていつの間にか溢れ出て指に絡みつく体液が意思を持ったようにピチャピチャと音をたてる。
「あ……あぁ……」
そのうち自分の激しい息づかいと唇からこぼれ落ちる声が他のすべての音をかき消した。
その先にあるものは……今までに何度も味わった事のあるこの感覚。
体中の血液が指に挟まれた物へ集まってくるこの感覚。
強い尿意にも似たこの感覚。
そして、堪える事ができずに指の隙間から溢れ出す男の証し……
「マサト……」
俺は弾む息を整えながらベチャベチャに濡れてしまった行く当てのない右手を力なくタオルケットの上に寝かせた。

 その瞬間、遠くの方で弟の声がした。どうやら母さんと弟が帰宅したようだ。
ちょうどその時左足の足首にかろうじて引っかかっているジーンズのポケットの中で何かが震えた。
どうやら携帯に電話がかかってきたようだ。電話をしてきたのは……恐らくマサトだろう。