11.

 僕が母さんに追いついたのは、電車の駅に着いた時だった。
僕の家の最寄り駅はそれほど大きくはない。 ガラス戸を開けて灰色の床を真っ直ぐに行くと右手に券売機が並び、左手に売店がある。 そして階段を4〜5段上って更に真っ直ぐ行くと改札口が見えてくる。
僕が母さんを追いかけて駅に着いた時はちょうど電車が到着したところらしく、改札口から出口へ向かって来る人たちが大勢いた。
そのほとんどが、学生服を着ている人たちだった。
僕は紺やグレーの学生服に混じって前へ進む母さんを一定の距離を置いて尾行した。 じゃれ合う女の子たちやふざけて蹴り合う男たちの影にそっと隠れながら…

 母さんは、街の中心部へ向かう電車に乗った。
電車に揺られている40分ほどの間、母さんは座席に腰かけて俯き、ウトウトしているようだった。
うまい具合に母さんの前にはつり革につかまって立っているサラリーマン風の男が2人いて、その人たちが壁になっていて くれたから、僕は隣の車両のドア付近に立ってその壁の隙間から母さんを観察する事ができた。
母さんは…やっぱり綺麗だ。
僕と同じ車両には母さんと同じ30代後半ぐらいの年齢の女の人が何人も乗っていたけど、その人たちと見比べても 母さんはダントツに美人だった。
電車が揺れるたびに、母さんの長い髪も揺れる。
いつも頭の上で束ねているツヤツヤした髪が、実は随分長いという事を僕はその時初めて知った。
それは僕が…こんなふうになるまで母さんに関心を示さなくなっていた証拠でもあった。
しばらく電車に揺られていると夕日になる前のお日様が僕の目に突き刺さり、僕は目を細めて母さんを見つめた。
低い位置にある太陽が電車の床やつり革を白く照らし、とても眩しかった。

 僕は夕方の太陽に幻惑されながら、図書館へ行った時に見た母さんの姿を思い出していた。
あの時母さんは1人ではなかった。母さんと一緒にいたのは、頭が禿げ上がり、でっぷりと太ったスーツ姿の男だった。
母さんはいつものように髪を頭の上で束ね、風によく膨らむフワフワとした真っ白なワンピースを着ていた。 あの時の母さんの姿は、まるで少女のようだった。
あれはきっと、別れのシーンだったのだろう。
赤や黄色の花が咲く花壇の向こうで2人は見つめ合い、何か言葉を交わしていた。
2人のいる位置は遠かったから、もちろん何を話しているのかはよく分からなかった。 だけど母さんが白い歯を見せて笑っているのだけはよく分かった。母さんは、最近見ないほどに楽しそうだった。
やがて母さんはバイバイ、と手を振り、白いワンピースを風になびかせながら男に背を向けて歩き出した。
そして母さんが3歩歩いた時、風になびく髪もないほど頭の禿げ上がった男が母さんを追いかけ、風に膨らむ 白いワンピースの上から…お尻を触ったんだ。
僕はその時、汗ばんだ掌にぎゅっと力を入れて拳を握った。それは母さんがきっと怒り出すと思ったからだった。
だけど母さんは怒るどころか、振り返って再び男に笑いかけ、さっきよりも更に大きくバイバイ、と手を振って見せた。
その時の僕にはお尻を触られて笑っている母さんの気持ちがよく理解できなかった。

 40分電車に揺られた後母さんはスクッと席を立ち上がり、眩しい太陽に向かって歩いて行った。
そして僕は一定の距離を保って母さんの後を追いかけた。
母さんは人でごった返す繁華街の道を迷う事なくスタスタと歩いて行った。母さんは自分の行き先をちゃんと分かっている。 僕はその確かな足取りを見てそう思った。
母さんの長い髪は風に揺れ、ハイヒールを履いて歩く足には躍動感があった。
時々、アスファルトの上で母さんとすれ違ったサラリーマンがふと立ち止まって振り返る。
その人の目は、タイトスカートに包まれた母さんの小さなお尻を見つめていた。
僕はその時、やっと気付いたんだ。母さんは女なんだという事に…

 人ごみの中。母さんは数々並ぶ飲食店の前や最近できたばかりの巨大な本屋の前を通り、信号を3つ渡って 細い道を左へ折れた。
その頃にはもうだいぶ日が傾いていて高いビルの影が道路に大きく映し出され、日影になっているその通りは 肌寒くさえ感じられた。
僕は、慎重に母さんを追いかけた。
母さんはだんだん人気のない方へ歩いて行ったから、尾行はどんどん難しくなっていった。
日影になっている通りにはビルがいくつか並んでいて、各ビルの1階には必ずと言っていいほど何かの店舗が入っていた。
それは喫茶店だったり、着物屋さんだったり、カメラ屋さんだったりした。
母さんは細い通りの真ん中ぐらいにあるレンガ色のビルの前で立ち止まり、青い喫茶店の看板を見上げた後その店に入った。
母さんの姿が通りから消えた後、僕はソロソロとレンガ色のビルへ近づいた。
その1階には『青い鳥』という名の喫茶店があったけど、その店には窓もなく、真っ白な入口のドアは閉ざされていたから 中の様子を見る事はできなかった。
そして真っ白なドアを通り過ぎてまだ真っ直ぐにビルの奥へ進むと、そこには小さなエレベーターがあった。
だけど、身を隠すようなスペースはまったく見当たらない。
僕は少し考えた末にそのビルから少し離れた場所で母さんが出てくるのを待つ事にした。
半分だけシャッターが下りている、どこかのお店の倉庫。
僕はその中に積んであるダンボールの陰に隠れ、しばらく待機した。倉庫の中はまったく日が当たらず、ひんやりとしていた。
それから後の事は…きっと生涯忘れられないだろう。

 喫茶店の真っ白なドアが開いて母さんが再び姿を現した時、僕はまだ息をひそめて薄暗い倉庫の中にいた。
倉庫の中は寒く、コンクリートの床はひどく冷たい感じがした。
僕はダンボールの隙間から、歩き出した母さんの影を目で追った。その時母さんはもう…1人ではなかった。
母さんの隣を歩くのは、メガネをかけた細身の男だった。
男は紺色のスーツを着て、右手に黒いパソコンバッグを持っていた。年齢は…40代後半ぐらいだろうか。 七三に分けた男の髪はフサフサしていたけど、全体の2割ぐらいが白髪になっていた。
男にも母さんにも笑顔はなく、2人はただ並んで歩いて行った。

 僕は2人がしばらく歩いて行くと、音をたてないように忍び足で倉庫を抜け出した。
通りを歩くOL風の女の人が僕を変な目で見ていたけど、そんな事には構っていられなかった。
僕は2人を尾行する間、心臓がドキドキして息が苦しかった。 そのあたりはまだ交通量も多く、走り去る車の音が僕の耳に響いていた。
時々ビル風に吹かれて僕の髪が大きく揺れ、そのたびに前髪が目に突き刺さって痛かった。
2人はどんどん人気のない方へ向かい、さっきより更に細い道を2回左へ折れた。
その頃になると尾行を続ける事はますます困難になっていた。
車も通らず、まったく人気のないひっそりした細い道。 その道に面しているのは、ものすごく古い民家やゴミ捨て場にされている空き地だった。 草がボウボウに生えている小さな土地には錆びた鉄骨や壊れた冷蔵庫が横たわっていた。
街1番の繁華街からほんの少し外れただけの場所なのに、まるでそこだけゴーストタウンのようだった。
2人は、目的地へ向かってさっさと足を進めて行った。
もう車の音は遠くの方で微かに聞こえるだけだった。通りに響くのはアスファルトを蹴る母さんのハイヒールの音だけになった。

 僕はその通りに路上駐車していた白いトラックの陰から2人の背中を見つめていた。
ひっそりした通りにある物は、古い民家やゴミ捨て場。だけど…その奥に一際目立つ看板がはっきりと見えた。
所々電球が切れているけど…青く光る看板には『ホテル』という文字がはっきりと浮かび上がっていた。
そして紺色の背中と薄い黄色の背中がその看板の奥へ消えた時、僕は思わず歩道の上に座り込んでいた。
冷たいアスファルトの上には、誰かが吐き捨てたガムが転がっていた。