13.

 やっちゃんはコンビニで買い物をした帰りで、重いレジ袋を持っていた。
僕とやっちゃんはレジ袋の持ち手を片方ずつ持って、その重さを半分ずつに分けて歩いた。
白い袋を挟んで彼と手を繋いでいる。僕はそんな気がして、すごく嬉しかった。
「何買ったの?」
「いろいろ」
彼は僕の質問に簡単に答え、思い出し笑いをしたようにクスッと笑った。
「ねぇ、今日は一緒にいられる?」
「うん」
「ずっとずっと、夜まで一緒にいられる?」
「うん」
彼は頷く時、ちゃんと僕の目を見てくれた。太陽に照らされたやっちゃんの目は透き通っていて、すごく綺麗だった。
「一緒に外を歩くの、初めてだね」
「うん」
「僕、すごく嬉しいよ」
僕がそう言って笑った時、突然彼が道の真ん中で立ち止まった。彼は不思議そうな目で僕を見つめていた。
「どうしたの?やっちゃん…」
その時また強い風が吹いて、街路樹の葉が大きく揺れた。やっちゃんは風で浮き上がったキャップを手で押さえ、 天使のように微笑みながら僕にこう言った。
「遠回りして帰ろうか」
僕はその言葉が嬉しくて…レジ袋を思い切り引っ張って次の角を曲がるためにやっちゃんを誘導した。
角を曲がると、高い塀に遮られて強い風は感じられなくなった。 でも時々微かな風が吹いて、やっちゃんの匂いを僕の所へ運んできてくれた。
僕はそのたびに大きく息を吸って、やっちゃんの匂いを体の中へ全部溜め込んだ。

 僕らは道を何度もクネクネと曲がり、途中で行き当たったゲームセンターへ入った。
そこは最近できたばかりの店らしく、中へ入るとまだ新しい匂いがした。
ガラス張りの店内はそれほど広くなかったけど、とても明るくて新しいゲーム機がたくさん並んでいた。 必死になってコントローラーを動かしているのは、半ズボンを履いている小学生ばかりだった。
僕らはフラフラと店内を歩き、最後に入口付近にあるユーフォーキャッチャーの前に立った。
するとやっちゃんはジーパンのポケットの中から100円玉をいくつか取り出し、それを僕の手に握らせて、 ガラスの向こうに山積みされているぬいぐるみの中の1つを指さした。
「坊や、あれ取って」
彼が指さしたのは、茶色い毛のクマのぬいぐるみだった。
「あれが欲しいの?」
「うん」
やっちゃんは子供のように微笑んで大きく頷いた。
それから僕は、必死になってクマのぬいぐるみを取る事に専念した。 もう本当に、汗をかきながら死に物狂いでクマのぬいぐるみに集中した。

 約1時間後。やっちゃんは片手にレジ袋を持ち、もう片方の手にクマのぬいぐるみを抱きしめながら 上機嫌でアパートへ帰る道を歩いていた。
でも僕は…ちょっと不機嫌だった。
「坊や、どうしていじけてるの?」
彼は弾むような声でそう言いながら隣を歩く僕を見つめた。僕は口を尖らせながら正直な気持ちを打ち明けた。
「だって…それを取るのに3000円も使っちゃった」
そう。僕はなかなかクマのぬいぐるみを取る事ができず、彼にたくさんのお金を使わせてしまった。 その事がなんだかすごく情けなかったんだ。
「この子の名前、シュンちゃんっていうんだよ」
やっちゃんはそう言って、クマのぬいぐるみにキスをした。僕はその時、自分がキスされたみたいで少し嬉しくなった。
「僕の名前、知ってたの?」
「うん。表札に書いてあったから」
「やっちゃんの名前は…ヤスシ?」
僕がそう言うと、彼はまたクスッと笑った。
「全然ちがーう」
「じゃあ…ええと…」
「僕、矢島っていうんだ。名前は直樹だよ」
そうか、なるほど。
そう思って頷いた時、やっちゃんのアパートの青い屋根が見えてきた。
空を見上げると、まだお日様が高い位置から僕らを照らしていた。 こんなに天気のいい日にもう部屋へこもってしまうなんて…少しもったいないような気がした。

 その時やっちゃんはもうジーパンのポケットから部屋の鍵を取り出そうとしていた。
僕はかなり長い距離を歩いたせいでじわじわと汗をかいていた。
もうすぐアパートの階段が見えてくる…そう思った時、階段の手前にある電信柱に寄りかかって立っていた背の高い男が 僕らの気配に気付いてこっちへ目を向けた。
夏らしいベージュのスーツを着たその男は、一見して金持ちそうだった。 黒い髪には太陽が当たってキラキラと光り、それと同じぐらいの輝きを持つ金色の腕時計を左腕にはめている。 お腹が妙に出っ張っているのは、いつも美味しい物ばかり食べているからだろうか。
男は切れ長の目をやっちゃんに向け、それから僕の顔をちらっと覗きこんだ。
それから手に持っていたたばこを足元に投げ捨て、ゆっくりと僕らの方へ近づいてきた。 電信柱の下には、たばこの吸殻が5本ぐらい捨てられていた。
「よぉ」
男はやっちゃんの前に立ち、唇の端を歪めて笑いながらそう言った。
僕にはもう分かっていた。この男は…やっちゃんの客だ。
「何しに来たんだよ」
僕はレジ袋の持ち手をぎゅっと握り締めながら、冷たくそう言い放つやっちゃんの横顔を見上げていた。 キャップのつばが影を作って彼の目はよく見えなかったけど…きっとその目は男を睨みつけていた。
男はそれでもひるまず、フッと笑ってちらっと僕を横目で見た。やっちゃんはすぐその視線に気付き、 クマのキーホルダーが付いた部屋の鍵を僕に手渡した。
「先に行ってて。冷蔵庫にジュースが入ってるから、飲むといいよ」
「…」
僕は何も言えず、レジ袋の持ち手を離して男の脇を通り、ゆっくりとアパートの階段へ向かった。
階段の上には青い屋根が付いていて、半分ぐらい上ると僕の姿は外から見えなくなる。 僕は一度足音を立てて2階へ上って、それからそっと階段の途中まで戻り、そこに腰かけて2人の話を聞いていた。

 「いきなり来るのはルール違反だろう?」
やっちゃんのきつい言い方を聞いて、僕はすごくドキドキした。 僕の知っているやっちゃんは温厚で…いつもゆっくりと優しい声で話すからだ。
僕の座っている場所から2人の姿は見えなかったけど…その方が良かった。 やっちゃんの怖い顔を見たら、泣いてしまいそうだったから。
「あんたも見ただろう?客が来てるんだ。帰れよ」
「あんなの客じゃないだろう?お前、ベビーシッターでも始めたのか?」
「分かった。もうあんたとは寝ない。だからもう帰れよ」
やっちゃんの足音が微かに僕の方へ近づいた。僕は逃げ出したかったけど、怖くて立ち上がる事ができなかった。
「待て。怒るなよ」
「離せよ!」
「怒るなって。急に来たのは悪かった。車を買ってやるから、機嫌直せよ」
「うるさいな!帰れ!二度と来るな!今度来たら警察を呼ぶぞ!」
僕の耳はやっちゃんの怒鳴り声を聞く事に耐えられなかった。 僕は足がすくんで動けず、冷たい階段の上に座って耳を塞ぐ事だけで精一杯だった。

 「坊や…もう終わったよ」
何も聞きたくない。そう思ってきつく耳を塞いでいた僕の目の前に、やっちゃんがいた。
僕はその時彼の手がないと立ち上がれないほど打ちのめされていた。
僕が耳を塞いでいたのはいったいどのぐらいの時間だったのか。 1分足らずだったような気もするし、1時間だったような気もする。
「さぁ、部屋へ入って休もう」
やっちゃんは左手にレジ袋を持ち、小脇にクマのぬいぐるみを抱え、右手で僕の手を引いた。
僕は彼の部屋の白いドアの前に立って鍵を開けようとしたけど、手が震えてなかなかそれができなかった。
「ごめんね、坊や」
やっちゃんが本当に申し訳なさそうにそうつぶやいた。僕はその瞬間手に持っていた鍵を落としてしまい、 それと同時に目から涙が溢れた。

 やっちゃんの部屋はいつも通り散らかっていた。
僕はいつものようにベッドに腰かけ、いつものように散らかった部屋の中を見つめた。 でも、今日の景色はいつもとはまるで違って見えた。
窓の外から入り込む温かい風や明るい太陽の光さえも、いつもとはまったく違うように感じた。
「ごめんね坊や。まさかこんな事になるなんて…」
やっちゃんはいつものように僕の隣に腰かけ、俯いて散らかった床の上に目を落としていた。
僕はなかなか涙が止められず、制服のズボンの上にポタポタと涙の雫がこぼれ落ちた。
ふと足元に視線を落とすと、コンビニのレジ袋とクマのぬいぐるみが目に入った。僕はそれを見てますます涙が溢れた。
やっちゃんがコンビニで買い物をするお金。それにクマのぬいぐるみを取るために使った3000円。それらは全部、 さっきみたいな男の懐から出ているんだ。

 「坊や、泣かないで。お願いだから…」
やっちゃんはただ俯いて、小さくそう言うだけだった。僕は彼の肩にもたれかかり、思い切り泣いてしまいたいと思った。
でも僕が彼に寄りかかろうとした瞬間、それを避けるかのようにスクッとやっちゃんが立ち上がった。 僕は思わずいつもとは違う態度を取った彼の顔を見上げた。
「シャワーを浴びてくる。あいつに触られた手で坊やを抱くのが嫌なんだ」
僕は立ち上がり、そう言って歩きかけた彼を止めた。
僕は唇を噛み締めている彼の前に立ち、次々と溢れ出す涙を拭う事もせずに彼を見上げてこう言った。
「一緒にいく。僕がやっちゃんの手を洗ってあげる」
涙を流しながら彼を見上げてそう言った時、僕はやっちゃんに抱きしめられた。
僕はその時ほど強く彼に抱きしめられた事はなかった。僕を抱きしめる彼の両手は…微かに震えていた。
「坊やがスキだよ」
「僕も…やっちゃんがダイスキ」
耳元で囁く彼の声に答えると、やっちゃんは僕の顎をクイ、と右手の指で持ち上げ、頭がクラクラするほど激しいキスをしてくれた。
彼の舌が僕の口の中を舐め回す。僕はもう腰が砕けそうになり、それをさとったやっちゃんは両手で僕の体を力強く 支えてくれていた。
体が熱い。だんだん意識が遠くなる。キスだけでこんなに感じてしまうなんて…やっちゃんは、やっぱりキスの天才だ。

 やがて長いキスが終わりを告げ、やっちゃんは僕の頬を両手で包み、僕の顔をじっと見下ろした。 僕を見下ろす彼の目には…微かに涙が光っていた。
「さっき僕が遠回りして帰ろうって言ったら…坊や、すごく喜んでくれたよね。僕、すごく嬉しかったよ。 僕の客は皆僕の体だけが目当てで…外で待ち合わせをしても、いつもすぐにここへ連れてこられた。 たまには外を歩きたいって言っても…いつも顔をしかめて早くやらせろよ、っていう目で僕を睨んだ」
「…ひどい」
僕の顔はその時きっと、涙でグシャグシャだった。
やっちゃんがあまりにもかわいそうで…どうしても涙を止められなかった。
「僕はやっちゃんがスキ。やっちゃんと手を繋いで外を歩きたい。2人きりで…もっといろんな所へ行ってみたい」
僕は再び彼に強く抱きしめられた。呼吸が苦しくなるほど強く…抱きしめられた。
彼のティーシャツは僕の涙と鼻水でびしょ濡れになってしまった。
僕は彼の胸に顔を埋めて泣きながら…1つの大きな決断を下した。