15.

 次の日曜日。僕はまぶたの向こうに眩しい朝日を感じて目が覚めた。
ベッドの上に起き上がって窓を覆う厚いカーテンを開けると、更に強い日差しが僕の目に突き刺さった。
窓を開けて外へ顔を出すと温かい空気に包まれた。見上げた空は真っ青で、雲1つ見当たらない。
向かい側に見えるやっちゃんの部屋の窓はまだ閉じていて、カーテンも引かれたままだった。
ちらっとベッドの脇の目覚まし時計に目をやると、8:20というデジタル表示が見えた。
きっとやっちゃんはもうすぐ目を覚まし、窓を開けてくれるだろう。
今日僕は、朝から彼とずっと一緒にいる約束をしていた。
今日1日、いったい2人で何をして過ごそう。こんなに天気がいいんだから、外で遊ばなくちゃ損だ。
僕は真っ青な空を見上げ、温かい空気に包まれながら今日1日の事に思いを馳せていた。

 ふと気配を感じて向かい側の窓へ視線を戻すと、窓の向こうでカーテンが揺れた。 そう思った瞬間あっという間にカーテンが開けられ、ガラガラと音をたてて窓が開いた。
そこから顔を出したのは、もちろん僕のダイスキなやっちゃんだった。
やっちゃんは相変わらず上半身が裸だった。彼は外の強い日差しに目を細めながら茶色く染めた前髪をかき上げ、 天使のような微笑を僕にくれた。
彼の笑顔が眩しかった。太陽の何十倍も…眩しかった。
僕が軽く手を振ると、やっちゃんも同じように手を振ってくれた。それから彼はどこかからクマのシュンちゃんを 連れてきて、ぎゅっと抱きしめながら彼にキスをした。
そして彼は早く来て、というように右手で僕を手招きした。僕がにっこり微笑むと、やっちゃんも同じように にっこり笑ってくれた。
これからはずっとこんな朝を迎えられる。これからはずっとやっちゃんと一緒にいられる。
僕は早くその事を彼に伝えたかった。
彼がいつも僕のために開けてくれたその窓を、今度は僕が彼の部屋の中から閉じてしまいたい。

 僕が彼の笑顔に見とれていると、背中の後ろでコンコンとドアがノックされた。
僕はその音を聞いた時、来るべき時が来たと思っていた。
「シュンちゃん、起きてる?」
ドアの向こうで母さんの高音な声がした。 僕はそのまま振り返ってベッドの上に腰かけたまま真っ直ぐに茶色のドアを見つめ、起きてるよ、と一言返事をした。
次の瞬間ギギッと嫌な音をたててドアが開き、神妙な顔つきの母さんが僕の部屋へ入ってきた。
母さんがその時着ていた洋服は…ヘソクリの入った茶封筒の上にたたんで置いてあった白いサマーセーターだった。
「シュンちゃん、話があるの」
母さんはドアの前に立ち、曇りがちな目を僕に向けてそう言った。
その時の母さんは、母親の顔をしていた。 頭の上で束ねた髪はいつも通りにツヤツヤと光っていた。僕によく似た小さな唇は、カラカラに渇いているようだった。
母さんは僕に背を向けてベッドの脇に力なく腰かけた。その時母さんは終始伏し目がちだった。

 僕は母さんが話を切り出すのをじっと待っていた。でも母さんはなかなか話を始めようとはしなかった。
その日はいつもに増して日差しが強く、窓を背にして座っていると後頭部がジリジリと焼け付くようだった。 そのうち額に汗が浮かんで…僕は白いパジャマの袖口でその汗を拭った。
僕の目の前に座っている母さんのうなじは白くてとても綺麗だった。僕はやっちゃんに見とれるのと同じように母さんの白いうなじに 見とれていた。
「シュンちゃん…最近、母さんの部屋に入らなかった?」
しばらくすると母さんは僕に背を向けたまま搾り出すような声でそう言った。母さんは、最後まで決して振り向こうとはしなかった。
僕はふと母さんの向こうに見えるお気に入りの学習机を見つめた。
わざわざオーダーして造ってもらった木の学習机と椅子。机の高さは丁度いいし、椅子の座り心地も最高だ。
その座り心地のいい椅子は、しばらく使われないまま机の下に納められていた。
少し前まで、この学習机が僕の居場所だった。この学習机は、いつも僕と共にあった。僕の頑張りをちゃんと見ていてくれた。
でも僕は…新しい居場所を見つけてしまったんだ。
やっちゃんの胸が今の僕の居場所。ギシギシいう彼のベッドが僕の居場所。 そこは学習机よりも…もっともっと居心地がいい。
母さんも、自分の居場所を見つけたんだね?そしてその場所は、とても居心地がいいんだね?

 僕は母さんに近づき、その小さな背中を後ろから抱きしめた。すると母さんの体が一瞬ピクッとした。
母さんの骨ばった腰に両手を回すと…その細さに驚いた。母さんは、こんなに痩せていただろうか。
「シュンちゃん?」
母さんの震える声が、僕の名前を呼んだ。
「母さん…僕の事が好き?」
僕は母さんの耳元でそっと囁いた。母さんは…とってもいい匂いがした。
「もちろん好きよ。シュンちゃんは母さんの宝物なんだから」
僕は母さんの頬に僕の頬を寄せ、母さんをきつく抱きしめた。すると腰に回っていた僕の腕を、母さんの手がぎゅっと強く 握り締めた。
「僕も母さんが大好きだよ」
「本当?」
「うん。だから…ちゃんと話がしたいと思ってたんだ」
「話って…どんな事?」
母さんはその時、たんすの中から消えたヘソクリの事で僕の部屋へやってきた。それは絶対に間違いない。
母さんは…僕がその時何を言うかもう分かっていたような気がする。

 「母さん…お金が欲しくてあんな仕事をしてるの?」
「…」
「そうじゃないんでしょう?本当はお金なんかいらないんでしょう?」
「…」
僕が何を囁いても、母さんはもう一言も口を利かなかった。
僕は、母さんが傷ついている事をちゃんと理解した。それは…何も言わない母さんが涙を流し、その温かい 雫が腰に回した僕の腕にポタポタと零れ落ちたからだ。
「悪いのは父さんだ。母さんを放っておいた父さんがいけないんだ。母さんに淋しい思いをさせた父さんが全部悪いんだ」
声もたてずに泣いている母さんが愛しかった。 母さんはこうなるまでにいったい何度こうして泣いたんだろう。
僕の腕にも、母さんの膝の上にも涙がいっぱい零れ落ちて、母さんのスカートの上にはいくつもシミができていった。 綺麗な紺色のスカートが…台無しだ。
「僕はいつでも母さんの味方だよ。母さんが大好きだから…ちゃんと秘密を守ってあげるよ。 僕は父さんに余計な事を言ったりなんかしない。母さんは今まで通り仕事を続ければいい。 僕は母さんがどんなふうになってもずっと大好きだよ」
その時僕が口走った言葉にウソはない。ただし、僕が1番ダイスキなのはやっちゃんで、母さんは2番目だった。
でも…僕が母さんの秘密を守るのには大事な条件があった。それはもちろん…お金だ。
「母さん、あのお金は僕にちょうだい。母さんがいらないなら、僕にくれてもいいでしょう?」
母さんは相変わらず何も言わず、ただ小さな体を震わせて涙を流していた。 僕は、返事のないのが母さんの返事だとちゃんと分かっていた。

 僕は母さんの事をよく分かっている。母さんは小心者だ。 母さんは父さんと別れて1人で生きていけるほど強くはない。 父さんの稼いだお金で家計をやり繰りし、新興住宅地の一角に暮らし、そして内緒のアルバイトをするのが精一杯なんだ。
僕は更に力を込めて母さんを強く抱きしめた。母さんの温もりはとても温かいのに、母さんの体はずっと震えていた。 僕は自分の力で…その震えを止めてあげたかった。
「母さんが稼ぐお金は僕にちょうだい。そうすれば…何もかもうまくいくんだ」
母さんは僕が耳元で囁くたびに大粒の涙を流した。
母さんは笑っていた方がずっとかわいい。僕はそう思い、右手で母さんの柔らかな頬に流れる涙を拭ってあげた。 すると母さんは、頬に乗せた僕の手にその小さな手を重ねて握り締めてくれた。
母さんの手は、とても温かかった。母さんの涙も、とても温かかった…

 僕の気が小さいのは母さん譲りだった。僕はかなりの小心者だ。
でも僕は、時々自分が分からなくなる。後から考えると、母さんにどうしてそんな大胆な事が言えたのか本当に分からない。
でも僕は…ダイスキな人のためならなんだってできる。
お金さえあれば、やっちゃんはクソヤローの相手をしなくて済む。
稼いでくるお金を僕に全部渡してくれれば、母さんは今の暮らしを失わずに済む。
僕はやっちゃんがダイスキ。そして母さんの事も大好き。だから、僕が2人にしてあげられる事はなんでもしてあげたい。
僕のダイスキなやっちゃんと母さんは、僕に大事な人を守る強さを与えてくれた。