3.

 僕が「やっちゃん」を初めて見かけたのは、彼が隣のアパートへ引っ越してきて1ヶ月が過ぎた頃の事だった。
ある晴れた日曜日の午後。といってももう学校は夏休みに入っていたから、僕はその頃毎日が日曜日だった。
それはまるっきり偶然だった。
その日、近所のコンビニで買い物して家へ帰る途中 僕は初めて「やっちゃん」を見かけた。

 僕はコンビニの白いビニール袋を右手に持ち、のんびりと家へ続く道を歩いていた。 僕の家は新興住宅地にあって、その通りには立派な家がたくさん並んでいる。
時々門の奥から顔を出す青木さんちのプードル。 暇さえあれば車庫にこもって車をいじっている吉田さんちのおじさん。
どこを見てものどかな風景ばかりだ。僕は受験生で、天気のいい日も悪い日も部屋へこもって勉強ばかりしていると いうのに。
その日は暑かった。
乾いた風が僕の頬をなでていく。ギラつく太陽が僕の頭を照りつける。
こんな日はプールにでも行って泳ぎたい…僕はそんな事を考えながら、立派な家の脇をトボトボと歩き続けた。

 やがて僕は自分の家の前にたどり着き、玄関のドアに手を掛けた。
その日は洗濯日和で、ベランダの前の物干し竿には母さんが洗濯したシーツやなんかがたくさん掛けてあった。 その時僕が洗濯物を見るために立ち止まらなかったら、あとちょっとでもやっちゃんが遅れて家を出ていたら、 そうしたら、僕らの出会いはもっとずっと後になっていたのかもしれない。

 白いシーツを見ていた僕の耳に、カンカンカンと階段を下りてくる足音が聞こえた。 それはまさしく隣のアパートの方から聞こえてきた。
その足音を鳴らしているのは、例の窓の向こうの住人だ。僕にはすぐにその事が分かった。 隣のアパートはまだ新しい。1階と2階に3軒ずつ部屋があるけど、2階の残りの2部屋にはまだ人が入っていない。
カンカンカンという音が、だんだん近づいてくる。
僕はアパートの白い壁を振り返った。 階段の上には青い屋根が付いていて、最初はその屋根の下にやっちゃんの足だけが見えた。 黒いスニーカーと、ジーパンの裾だ。
それから更に足音が大きくなり、やがて青いティーシャツが見え、その後やっと彼の顔が見えた。
そして僕は、稲妻に打たれた。

ヒトメボレ。

その言葉の意味を初めて知ったのもその瞬間だった。
優しげな目。高い鼻。薄い唇。あまり日焼けしていないやっちゃんの顔は、光り輝いていた。
茶色に染めた髪は木の葉と共に揺れていたけど、彼は黒いキャップを頭にかぶってその揺れを止めた。
すでに地面に下り立った彼が歩きながら両手でキャップの位置を整える。 僕はその時、つばに手を掛けているやっちゃんと目が合った。 彼はその瞬間、天使のような微笑を僕にくれた。
後からよく考えると、その人はもしかして「やっちゃん」ではなく、彼のお相手の方だったという可能性もあった。 それなのに…僕はその時彼が「やっちゃん」である事を確信していた。
もう霞がかかったように頭の中が真っ白で、何も見えなくなった。
彼の笑顔に目がくらんだ。下半身がムズムズした。
僕は早く自分の部屋へ行きたくて、急いで玄関のドアを開けた。
コンビニで買ってきた物は、チョコレート味のアイスクリーム。
でもアイスが溶けちゃっても構わないから、早く夢の中でチョコレートよりも甘いキスをしたかった。
見えない相手ではなく、天使のようなやっちゃんと舌を絡ませ合いたかった。