6.
お気に入りの学習机の上には、1000円札が4枚。500円玉が1枚。100円玉が4枚。10円玉と1円玉が3枚ずつ。
全部合計しても、4933円。
やっちゃんの値段がこれでは、あまりに失礼すぎる。
「あ〜あ」
僕は机の上に突っ伏して大きくため息をついた。
せめて10000円ぐらいお金を集めないと、やっちゃんに会いに行けない。
彼は自分の値段を決してはっきりとは口にしなかった。
それは、僕がいったい彼にいくらの値段を付けるのか試されているような気がしていた。
僕は椅子に座ったままで後ろを振り返った。いつも通り、とても座り心地のいい椅子だ。
今日の空は曇っている。全開にしている窓の向こうから強い風が入り込み、薄いカーテンが激しく揺れている。
揺れるカーテンの向こうには、やっちゃんの部屋の窓がある。その窓は、あれから1週間閉じたままになっていた。
おかげで例の声に悩まされる事はなくなった。でも…僕はあれ以来余計に勉強が手につかなくなってしまった。
だって…窓が閉じている時、やっちゃんは窓の向こうで誰かとセックスしているに違いない。
窓はすぐそこにあるのに、とっても遠く感じた。
窓を閉めてくれと言ったのは僕の方なのに、いざこうなると窓の向こうで何が起こっているのか気になってしかたがない。
やっちゃんの部屋へ乗り込んだ時、僕はどうかしていた。
でもきっと…やっちゃんの言う通り、僕は彼と気持ちいい事がしたくてあの部屋へ行ったんだ。
僕があの部屋で彼にぶつけた怒りに似た感情は…嫉妬だった。
僕はお金を積んで彼を抱く男たちにものすごく嫉妬していたんだ。
僕はもう向かい側の窓を見るのはやめた。
再び机の上に突っ伏して、ため息をつく。
「はぁ…」
そして机の上に並ぶコインを見つめながら考える事はただ1つ。
残りのお金をどうやって工面しようか。僕が考える事は、ただそれだけだった。
机の上にあるお金は、約5000円。当面の目標は、あと5000円をどうにかしてかき集める事。
そして僕が思い付いたのは、ひどく子供じみた手口だった。
母さんにウソをつくのは苦手だけど、今はその苦手を克服してでもやっちゃんと愛し合いたい。
僕は机の上に並べたお金をとりあえず財布の中へしまい入れ、トントントンと足音を立てて階段を下りた。
今はちょうど午後6:00。母さんは夕食の支度をしているところだろう。
リビングを抜けてキッチンを覗くと、エプロンをした母さんは想像通りにそこいら中を忙しく動き回っていた。
ガスコンロの上の換気扇がカタカタと音をたてて回り続けている。
ダイニングテーブルの上には2つの箸がセットされていた。2つしかない箸は、父さんが今日も残業で遅くなる事を
表している。
額に汗を浮かべながら味噌汁を作り、ダイニングテーブルの上に皿を並べ、のそっと近づいた僕に優しく微笑む母さん。
小さい頃から僕の自慢だった母さん。
小柄な母さんは昔から美人でスタイルが良くて…僕はいつも学校の参観日が待ち遠しかった。
教室に母さんがやってくると同じクラスの皆が母さんを指さし、『あの人綺麗。誰のお母さん?』と口々にささやくからだ。
「もうすぐご飯ができるから、待っててね」
母さんの黒い瞳が僕に笑いかける。頭の上で束ねられた髪がツヤツヤと光っている。
優しい母さん。大好きな母さん。
僕は今…あなたにウソをつこうとしています。
「…母さん、数学の参考書を買いたいんだ。お金ちょうだい」
母さんは、背中で僕の声を聞いていた。僕は…母さんに面と向かってウソが言えるほど図々しくはない。
熱いガスコンロの前で、熱い鍋を覗き込んでいる母さん。
空色のエプロンがよく似合う母さん。
僕は今…あなたにウソをつきました。
「いくら欲しいの?」
母さんは僕に背を向けたままそう言ってガスコンロの火を止め、あらかじめ用意してあったお椀にとうふの味噌汁を注いだ。
それからすぐにダイニングテーブルの上へ湯気の上がる2つのお椀が乗せられた。
「買ってくれる?」
「必要な物ならしかたがないでしょう?」
母さんはパタパタとスリッパの音をたてながらキッチンの奥にある冷蔵庫の前へ行き、その白いドアを開けて
中から卵を2つ取り出した。
僕はその時、自分が幼い頃冷蔵庫の中にあった10個の卵を全部床に叩きつけて割ってしまった事を思い出した。
あの時…フローリングの床の上にドロッとした黄色の目玉が10個並ぶと、僕はすごく満足した。
母さんはあの時、ちっとも怒らなかった。
怒るどころか笑顔を見せ、生卵をつかんでヌルヌルした僕の両手をぎゅっと握り締めてくれた。
それから母さんは僕の目を見て『いろんな物に興味を持つのはいい事よ』と言った。
母さん、僕はあなたの言うように…好奇心旺盛な人間に成長しました。
「5000円で足りる?」
母さんは2つの卵をまな板の上にそっと置いた後、ダイニングテーブルの横にある背の高い食器棚の引き出しから
財布を取り出し、僕の顔を見上げて何も疑わずにそう問いかけた。
卵を床に叩きつけて割ってしまった時は僕の方が母さんを見上げていたのに…今は母さんの方が僕を見上げている。
僕を見上げる母さんの…目尻に刻まれた3本のシワがとても印象的だった。
「うん、足りるよ」
「そう。がんばって勉強してね」
僕は優しい母さんの手から、1000円札を5枚受け取った。
僕はその時、最初の一線を越えたような気がしていた。