7.
その翌日の学校帰り。僕は再びやっちゃんの部屋へ行った。
制服の白いワイシャツを着た僕が背負っているナイロン製のリュックの中には、黒い色の財布が入っている。
そしてその中には…母さんにウソをついて手に入れたお金が入っていた。
「あぁ…来てくれたんだね。入って」
やっちゃんは上半身が裸で…部屋着のような、柔らかそうな生地のズボンだけを履いていた。
彼はわだかまりもなく、あっさりと僕を部屋へ招き入れた。骨細なやっちゃんの上半身は意外に肩幅が広くて、
少しドキッとした。
彼の部屋の玄関へ入って白いドアを閉じると、外の太陽の光がシャットアウトされた。
僕はついている。もしかしてやっちゃんの部屋には誰か来ているかもしれないと思っていたけど、
最初の時も今も、彼は1人きりだった。
白いソックスを履いた足で彼の部屋へ踏み込んだ時、その部屋がこの前来た時とまったく違って見えた。
「ベッドに座って待ってて。今片付けるから」
でも本当は、その部屋は以前と何も変わりがなかった。
埃だらけの床に散乱するのは、彼が脱ぎ捨てた洋服やゴミとしか思えない物ばかり。
やっちゃんはそれらをサッと拾い集め、あっという間に掃除を済ませた。
「この前あんなふうに帰っちゃったから、もう来てくれないかと思ってた」
彼は掃除が終わると僕の隣に腰かけ、天使のように微笑んで僕の鼻をツン、と一突きした。
子供扱いしてる。
僕はそう思ったけど、彼にそんなふうに扱われるのが決して嫌いではなかった。
「今日は怒らないで。ちゃんと窓を閉めてるはずだよ」
彼はそう言って、例の窓を指さした。たしかにその窓は固く閉じられ、薄いカーテンが引かれていた。
カーテンの向こうから、微かな太陽の光が部屋の中へ差し込んでいる。
部屋の中は妙に埃っぽい。窓を閉めている事で、風通しが悪くなっているせいだろうか。
「ジュース飲む?外は暑かったよね」
やっちゃんは高い鼻を天井へ向けて目だけで微笑み、ベッドから飛び下りた。
すると、お尻の下のベッドがギシッと音をたてた。
僕は苦心してかき集めたお金で…このベッドを何度も揺らしたい。
この前来た時には気にも留めなかったけど、キッチンの奥には籐のついたてが置かれていた。
彼はその向こうにある冷蔵庫の中から缶ジュースを2本取り出し、僕に1本投げて寄こした。
それから彼は例の窓に近づいて暑い、とつぶやきながら窓を半分ぐらい開けた。
やっちゃんはその後再び僕の隣に腰かけ、缶ジュースのプルタブをプシュッと開けた。
彼は喉をゴクゴク鳴らしながらその中身を胃へ流し込んだ。
僕は彼の喉がその音に合わせて上下運動するのを横からじっと見つめていた。
しばらくすると彼は僕の視線に気付き、横目で僕を見つめながら中身のなくなったジュースの缶を
100円ショップで買ってきたような小さいゴミ箱の中へ投げ入れた。
すると部屋の中にガン、という大きな音が響いた。
彼の足元にあるゴミ箱の中をそっと覗くと、そこには以前のようなティッシュの山はなく、彼がたった今
投げ入れた青い色の缶だけが1人淋しく寝転がっていた。
生温かい風が半分開けた窓の外から入り込み、僕の頬をなでていった。
「坊やは肌が白いんだね。部屋にこもってばかりいるからかな?僕もあまり人の事は言えないけどさ」
膝の上でぎゅっと冷たい缶を握り締めながら俯く僕の顔を、やっちゃんが笑顔で覗き込んだ。
たったそれだけの事で…もう下半身がムズムズしてきてしまう。
百戦錬磨のやっちゃんは、きっとその事に気付いていた。
「坊やはおとなしいんだね」
やっちゃんが、僕の膝に手を置いた。僕はもう…我慢ができなくなった。
床の上に置いたナイロン製のリュックを持ち上げて、ゆっくりと中を開ける。
僕は無言で教科書の間に挟まっていた財布を取り出し、そこから今の自分の全財産である9933円を取り出した。
コインがぶつかり合うチャリン、という音がやけに大きく2人きりの部屋の中に響いた。
1000円札が9枚。500円玉が1枚。100円玉が4枚。10円玉と1円玉が3枚ずつ。
僕は4つに折り曲げた1000円札を伸ばす事もせず、財布の中身をすべてやっちゃんの左手に握らせた。
彼が掌の上のお金をゆっくりと数えている間、僕はただ俯いて埃だらけの床を見つめていた。
この床に生卵を思い切りぶつけてみたい。一瞬、そんな衝動に駆られた。
それからすぐに、再びジュースの缶を握り締めていた僕の右手がやっちゃんの手によって大きく開かれた。
力を入れた拳は、彼の手によって5本の指を全部真っ直ぐに伸ばされた。
その後僕は、絶望という言葉の意味を知った。
やっちゃんは険しい顔をして大きく開いた僕の手に9933円のお金すべてを乗せ、今度は僕にその手をぎゅっと握らせた。
…このお金じゃ足りなかったんだ。僕はその時、そう思っていた。
「このお金は受け取れない」
やっちゃんの低い声が、空気を震わせた。そしてまた生温かい風が僕の頬をなでていった。
僕の頬に涙はなかったけど、その風は僕の心の涙を乾かそうとしていたのかもしれない。
僕はその時、どんな顔をして彼を見つめていたんだろう。部屋には鏡がなかったから、そんな事は分からない。
ただ僕が理解したのは…彼が僕を拒絶したという事だけだった。
天使のように美しいやっちゃんの眉間に刻まれた深いシワ。その2本のシワは…僕をはっきりと拒絶していた。
少なくとも、その時の僕にはそう見えた。
「こんなお金…とても受け取れないよ。これ、どうやって集めた?買いたい物を我慢した?食べたいおやつを我慢した?」
僕は何も言えなかった。黙って首を振る事ぐらいしかできなかった。
母さんにウソついて工面したお金だとは…口が裂けても言えなかった。
僕は何か誤解していたらしい。それを理解したのはやっちゃんの表情が和らぎ、茶色に染めた彼の髪が少し風になびいた時だった。
彼はその時また僕の膝に手を置いた。僕の体中の神経が、すべて膝に集中する。
「僕が言った事を本気にしたの?おバカさんだね。そのお金はいらないよ。それを受け取る事は、僕の主義に反する。
僕はクソッタレの金持ちからしかお金を受け取らない。株で100万損したよ、と笑って言える人からしかお金を受け取らない」
やっちゃんはそう言って…自分のおでこを僕の頭にコツンと当てた。
膝に集中していた神経が、今度は全部頭へ移動を始める。
「坊やはもうここへは来ないと思ってた。僕はその方がいいと思ってた。でも…本当は来てくれるのを待ってた」
「えっ…」
来てくれるのを待ってた。来てくれるのを待ってた。彼が低い声で囁いたその言葉が、僕のすべてだった。
やっちゃんはほどなく僕から離れた。そして彼は…ベッドの上で仰向けになった。
僕の後ろで、ベッドのスプリングがギシッと音をたてた。
僕はこの状況が理解できず、ただ汗をかいた手でつき返されたお金をきつく握り締めていた。
4つに折ってあった1000円札は…きっと僕の手の中でもう幾重にも折り曲げられていた。
「お金なんかいらない。僕を好きにしていいよ」
低音なやっちゃんの声が、背中にゾクゾクと響いた。それと同時に背中を一筋の汗が流れ落ちていった。
僕はあまりにうろたえて、手に握り締めていたお金を全部床の上に落としてしまった。
僕は埃っぽい床の上にコインがコロコロ転がっていく様子を黙って見つめていた。
やがてコインはチャリンチャリンと独特の音をたて、それぞれの行き着いた場所で止まった。
幾重にも折り目のついた1000円札は…生温かい風に吹かれて尚床の上をさまよっていた。