2.

 転機は突然訪れた。
8月のある日。夜8時。
俺はいつものように銭湯へ向かった。ゴミ置き場からかっぱらってきた白いママチャリに乗って。
俺の住むボロアパートから銭湯『竹の湯』までは、チャリで3分の距離だった。
羨ましいぐらい大きな家の軒先を次々と通り抜け、細くでこぼこな裏道へ入ってから右、左、右と3回曲がると『竹の湯』と書かれた紺色ののれんが見えてくる……はずだった。いつもなら。
『竹の湯』の前で俺がブレーキをかけると、パンクしかけたママチャリがキキーと悲鳴を上げて止まった。
クリーム色の壁が99パーセント剥がれ落ち、ほとんどコンクリート色の壁をした『竹の湯』のガラス戸はしっかりと閉じていた。そして、そのガラスの上にマジックで[臨時休業]と書かれた白い紙が貼ってある。
しかもその文字はミミズがはったような……などと言うとミミズが気を悪くしてしまいそうなほどに乱れた文字だった。
おまけにその文字はスーパーのチラシの裏に書かれていて、キャベツ100円とか大根80円という文字が透けて見えた。なんとも『竹の湯』らしい貼り紙だった。

 「まいったな、休みかよ……」
俺は天を見上げてそうつぶやいた。
もう夜の8時だというのに、外の気温は恐らく30度近くある。今夜は熱帯夜だ。 3分チャリをこいだだけでもうティーシャツの下に汗がにじんでいる。
今日は仕事中にたっぷり汗をかいた。きっと俺は周囲10メートルぐらいに汗の匂いを撒き散らしている。
最悪。よりによってこんな日に臨時休業だなんて、シャレにならない。
夜空には綺麗に輝く星がたくさん浮かんでいた。 なのに、その綺麗な星空の下にいる俺の体は汚くて、汗の匂いをプンプンさせていた。
「え? 休み?」
急に背後で自分と似たような事をつぶやいた者がいた。 俺はママチャリにまたがったままその声の主を振り返った。

 その瞬間、小便をちびりそうになった。ママチャリの後ろに立って残念そうな顔をしているのは、俺の心を揺るがせたあの少年だったんだ。
振り返った俺は、彼とピッタリ目が合った。彼は白いスポットライト(外灯)に照らされていた。ただでさえ白い肌が、白いライトを浴びてますます白く輝いていた。
なんてカワイイんだろう。薄い茶色の髪はサラサラで、小さな顔は肌がツヤツヤで、高い鼻は真っ直ぐ天を向いていて、薄い唇は心なしかピンク色だ。 そして俺を見つめる目は人形のような薄茶色の目。彼は全体的に、色素が薄いのだ。
「お兄さんも、お風呂へ入りにきたの?」
初めて彼に話しかけられた。しかも『お兄さん』だってよ! なんて上品な呼び方をするんだろう。俺は普段、『あんちゃん』とか『オマエ』と呼ばれるのが関の山なのに。
「お兄さん、いつも来てるよね。この近くに住んでるの?」
少年の声は、透明だった。決して高音というわけではないが、とても透き通った声だった。
「ああ、わりと近所だよ。俺のアパートは風呂がないから、ここの常連さ」
俺は漏れそうになる小便をなんとか引っ込めながら、できるだけ平静を装ってそんなふうに返事をしてやった。彼が着ている白いチビティーシャツは首周りがぐっと開いているタイプの物で、細い肩と鎖骨が露になっていた。俺はたったそれだけでまた性欲をかきたてられた。
「お兄さん、汗かいてるね」
彼が俺の首筋を見つめてそう言った。この汗は、決して外の暑さのせいではない。
「僕の家、ここから歩いて20分ぐらいかかるんだけど……もし良かったら、家でお風呂に入りませんか?」
「えっ」
いいのか? 俺を家に入れたりなんかして本当にいいのか?
俺は君と2人きりになったら何をしでかすか分からないぞ。君は気付いてないかもしれないけど、俺のシンボルはもうやる気十分に膨らんでいるんだぞ。
「僕マンションに住んでるんだけど、最近水周りの手抜き工事が発覚してお風呂のお湯が出なかったんです。やっと直してもらったけど、銭湯の大きなお風呂が忘れられなくて……」
「そ、それでここへ来たのか?」
「はい」
そうか。やっぱりな。納得した。彼は風呂なしアパートにいるような人じゃない。 そんな事情でここへ来たとは知らなかった。でも、俺は手抜き工事をした業者に感謝したい気分だった。
「銭湯みたいに広くはないけど、ちゃんとお湯が出るようになったし……もし良かったら、家に来ませんか?」
君のようなカワイイ子がそんなに簡単に男を誘っちゃだめだよ。 俺は心の中で彼にそう諭しながらも、もちろんその言葉に頷いた。
こんなチャンスを逃すわけにはいかない。でも……もしも我慢できなくなって彼を犯してしまったらどうしよう。 肉体労働をしている俺と違って彼は細身で、背もそれほど大きくはなくて、きっと彼を押さえつけるのは簡単だ。それにこの純朴な雰囲気は……もしかしたら彼は童貞クンかもしれない。
自分が彼の初めての人になる。それはものすごい事だと思った。だってそうすれば、彼は一生俺の事を忘れない。
「じゃあ、乗れよ。荷物を寄こしな」
俺はそう言って彼が抱えていた黒いビニール袋を受け取り、ママチャリの籠に入れた。お楽しみは、この後だ。
後ろの荷台が急に重くなった。彼が乗ったからだ。
「早く風呂に入りたいから、飛ばすぞ! 家はどっちだ?」
「しばらく真っ直ぐです」
「よっしゃ! 飛ばすから、しっかりつかまってろよ!」
「はい」
「じゃあ、レッツゴー!」
彼の細い指の感触が、腹の辺りにはっきりと伝わる。 俺はわざとジグザグにチャリを走らせ、彼が俺の腹に強くつかまる事を楽しんだ。町の景色も、煌く下町のネオンも、ジグザグに揺れている。
さっきまで彼だけを照らしていた白いスポットライト(外灯)が、今は俺たち2人を照らしている。
天を見上げると、夜空にいっぱい星が輝いていた。 でもそれ以上に輝いているのは、俺の腹につかまる彼の白い肌。
俺、どうしようもなくこいつが好きだ。俺はその夜、自分の思いを本気で自覚した。
頬が熱い。でもそれは、外の暑さのせいじゃない。
俺はママチャリを飛ばして坂道を駆け下り、背中に感じる彼の温もりに酔いしれながら生温かい風を振り切った。