5.

 翌日は前の日より更に気温が高くなった。空は快晴。朝8時の段階でかなり暑いと感じた。
夏休みを楽しむガキにとっては海水浴日和だが、肉体労働者にとってはとてもきつい状況だ。
それでも貧乏人に暇はない。俺はその日も朝から工事現場で汗だくになって土を掘り返していた。

 正午になって、やっと昼メシの時間がやってきた。
俺は同じ現場で働くケンさんに誘われ、彼の車の助手席に乗ってまずはゆっくりと汗を乾かした。 ケンさんがクーラーでガンガン車の中を冷やしてくれたから、体中の汗はあっという間にひいていった。
それでも夏のギラギラ輝く太陽はアスファルトを容赦なく照りつけ、フロントガラス越しに紫外線がどんどん車内へ入り込んできた。
「はぁ……今日も暑いな。クソ!」
運転席に腰かけて汗が乾くのを待っているケンさんは、恨めしそうに太陽を睨みつけ、吐き捨てるようにそう言った。
ケンさんはこの道30年のベテランだ。彼はたしか今年で56歳になると言っていた。
ケンさんは俺のオヤジのような存在だった。頭に巻いたタオルとニッカーボッカーがよく似合ういつも元気なオッサンだ。
「あんちゃん、これ食えよ。女房手作りの弁当だ」
そう言ってケンさんが俺に差し出したのは銀色に光る弁当箱だった。驚きながらもそれを右手で受け取ると、弁当箱の底にはまだほんのり温かさが感じられた。
「いいんですか?」
俺は本当に驚いてケンさんにそう言った。ケンさんとはよくこうして車の中で一緒にメシを食ったけど、こんな物を受け取るのは初めてだったからだ。
「どうせろくな物食ってないんだろ? 女房にオマエの事を話したら黙って弁当を2つ持たせてくれたんだ。遠慮しないで食え」
ケンさんはそう言いながらラジオをつけて車内に演歌を流し始めた。ケンさんはいつでも演歌が友達なのだ。
「やった! すげぇ嬉しい。いただきます!」
俺は急いで弁当箱のフタを開け、白いご飯と温かいおかずに一礼してからメシにかじりついた。 いつもコンビニ弁当しか食っていない俺にとって、手作り弁当は最高の贅沢だった。
ケンさんはメシをかっ食らう俺を横から見つめ、ガハハと大きく笑いながら自分も弁当を食べ始めた。
「女房の弁当は世界一うまいぞ」
「ホントにうまいっス」
俺たちはしばらく明るい演歌を聞きながら、メシを食らう事に没頭した。

 たらふくメシを食った後、労働者は昼寝をすると決まっていた。
俺とケンさんも決して例外ではなく、お互いに弁当箱が空になった後はシートを倒して体を休めた。 クーラーの涼しい風を感じながら 演歌を子守唄にして。
だが目をつぶって2〜3分たった時 運転席のケンさんが何やらゴソゴソやっている事に気付き、俺はパッと目を開けた。するとケンさんが珍しく仰向けになりながら顔の上に本を広げているのが見えた。
「ケンさん……何読んでるんですか?」
「これだよ、これ」
俺の素朴な疑問に答えるように、ケンさんは両手に持っている本の表紙を見せてくれた。そこには『旅に役立つ英会話』という赤い文字があった。
「英語の勉強ですか?」
「来月女房と一緒にハワイへ行くんだ。そのために、ちょっとな」
ケンさんはただでさえ垂れ下がっている目尻を更に下げてニコニコしながらそう答えた。ケンさんは、愛妻家で有名な人だった。
「へぇ、奥さんとハワイかぁ。羨ましいな」
「ハワイはいいぞ。飛行機を降りたら若い姉ちゃんがブチュッとキスしてくれるんだ。それが1番の楽しみだよ」
ケンさんは更に目尻を下げて笑った。愛妻家といえども、若い姉ちゃんのキスには弱いらしい。
「そんな事して奥さんは怒らないんですか?」
「何言ってるんだ。ありゃ向こうの挨拶だろう。俺はしかたなくキスされてやるんだよ」
ケンさんはそう言ってまた英会話の本に目を戻し、何やら訛った英語を小さな声でつぶやいていた。

 挨拶……か。
俺は目を閉じて少年のキスを思い出していた。
俺の頬にはまだ彼の唇の感触が色濃く残されていた。あの時の事を思い出すと、今でも心臓がドキドキしてしまう。
あれは本当にただの挨拶だったんだろうか。彼は何も考えずただ習慣でああしただけなんだろうか。
彼は本当にただの無邪気な少年なのかもしれない。 でも、その無邪気な行動が俺をこんなに悩ませているなんて……きっと彼は知らないのだろう。
「あんちゃん、オマエも早く女作って結婚しな」
演歌をバックに、ケンさんが真剣な口調でそう言った。
俺は目を閉じたまま口許を緩ませ、その後しばらく仮眠を取った。