7.

 8月21日。その日は俺にとって特別な日だった。
だが俺はその日が特別な日だという事をすっかり忘れていた。
その時の俺にとって8月21日とは、最後に少年と会ってから10日目の日という認識にすぎなかった。本当に、ただそれだけだった。

 その日はやはり気温が高い1日で、しかも湿気が多かったから昼間は常に肌がベトついていた。 でも夜になるとだいぶ空気がカラッとしてきて、ベトベトする不快感からは解放された。
8月21日。夜9時。
風呂上がりの俺はスッキリした気分で竹の湯ののれんをくぐり、外の風に当たっていた。
「あぁ、気持ちよかった」
俺は使用済みのタオルが入ったレジ袋を片手に、満天の星空を見上げてふとこんな事を考えていた。
明日もまた暑くなるだろうか……と。
そして1つ小石を蹴って竹の湯の前に止めてあったママチャリに近づき、ジーパンのポケットに手を突っ込んで愛車の鍵を取り出そうとした時……透き通るようなその声を背中で聞いた。
「お兄さん」
まさかと思って振り返ると、5メートル先にスポットライト(外灯)で照らされた少年の姿があった。
真っ白なスポットライト(外灯)を浴びた彼の肌はまるで透明のように見えた。
そして首周りの大きく開いたチビティーシャツから覗く鎖骨が目に付いた途端、俺はまたまたシンボルが膨らみ始めてしまった。
「お兄さん!」
少年はスポットライト(外灯)の下で飛びっきりの笑顔を見せ、ママチャリの前で立ち尽くす俺にダッシュで駆け寄ってきた。
タッタッタッという足音が、やけにリアルに近づいてくる。
本物だ。こいつは幻じゃない。本物だ!
「久しぶり! 会いたかった」
彼は最後に会った時と同じように俺の肩に手を回し、泣き出しそうな声でそう言った。その後頬に触れた温かい唇は……少し震えていた。
だがチュッという音がした後、彼はハッとしてすぐに俺から離れた。そして左手にぶら下げていたビニール袋を両手で抱え、その中に入っている箱がつぶれていないか確かめているようだった。
「それ、大事な物なのか?」
俺が問いかけると、彼はガラス玉のような薄茶色の目で俺を見つめ、コクリと1つ頷いた。そしてその後俺は、驚くような事を彼に言われてしまう。乾いた空気の中で。満天の……星空の下で。

 「お兄さん、今日が22回目の誕生日だよね?」
「……え?」
俺は彼に言われるまですっかり忘れていた。日々の暮らしに精一杯で、本当にすっかり忘れていた。
そうだ。確かに、8月21日は俺の生まれた日だった。
「さっき通りかかったらここに自転車が止まってたから、お兄さんがお風呂から出てくるまでずっと待ってたんだ」
「……」
俺は絶句していた。
様々な事が頭に浮かんで、何がどうなったのかさっぱり分からなかったんだ。
でも俺が何も言い出せずにいると、彼がすべての謎を解き明かしてくれた。
「この前お兄さんが家に来た時、脱衣所に置いてあったズボンのポケットから車の免許証が見えてたんだ。 その時、誕生日が今日だっていう事を知って……一緒にお祝いしたいと思ってた。でもちゃんと住所を控えておいたのに、お兄さんのアパートを見つけられなくて……」
「……」
「ほら、ちゃんとケーキを買ってきたんだよ」
彼は笑顔を見せてそう言いながら、大事そうに抱えていたビニール袋を俺に渡してくれた。でもその時、ガラス玉のような薄茶色の目は少し潤んでいた。
俺は胸がいっぱいで、なんにも言えなくなった。
誰かに誕生日を祝ってもらうなんて久しぶりだった。18歳の時に家を出て以来初めてだった……
「今日、お兄さんの所に泊まってもいい?」
「……」
「だって、家に1人でいると淋しいんだもん」
彼は潤んだ目を隠すように俯いて、さっき俺が蹴飛ばした小石を蹴った。するとその小石が電信柱に当たって カーン、というマヌケな音が辺りに響いた。

 俺は、天を仰いだ。するとすぐ側で彼がグスッと鼻をすすった。
どうして人生はいつもうまくいかないんだろう。どうしてこんな事になってしまうんだろう。
彼をアパートへ呼んだりしたら、俺は何をしでかすか分からない。
でも好きな奴にこんなふうにされたら、どうしたって帰れとは言えない。
彼は単なる淋しがり屋の少年なのか、それとも小悪魔なのか……
そんな事は、お星様に聞いたって分からない。そんな事はきっと……もう、どうだっていい。

 俺はその後、ママチャリの荷台に彼を乗せてアパートまでペダルをこいだ。とにかく一生懸命に重いペダルを踏み、できる限りスピードを上げて通りを駆け抜けた。
すると、頭上に輝く星たちが全部流れ星に変わった。