8.

 錆びついた階段を上り、ギシギシ言う木の廊下を歩き、ギギーッと大きなドアを引いて、狭い部屋に明かりを灯す。
足元にはすり切れた畳。その畳の上には四角いちゃぶ台。ドアの横には名ばかりのキッチン。
キッチンの横には超小型冷蔵庫。超小型冷蔵庫の上には拾ってきたテレビ。
右に見えるドアはトイレ。左に見える破れたふすまの奥は押入れ。
そして、玄関の向かい側にはこの部屋に1つしかない大きな窓。窓の横には役立たずのクーラー。
ここが……たった6畳の、俺の城だ。

 「帰りたくなったか?」
俺は、靴も脱がず玄関で立ち尽くしている彼に苦笑いをしながらそんな質問をした。 ここで彼が頷いてくれたら……きっと、淋しいけどほっとする。
しかし彼はブンブンと首を二度大きく振って靴を投げ飛ばし、すり切れた畳の上に足を踏み入れた。

 小さなちゃぶ台の上には、彼が買ってきてくれたケーキの大きな箱がある。
俺たちはその箱を挟んで座り、しばらく無言で見つめ合っていた。これじゃあまるで……お見合いだ。
サラサラな茶色の髪は少し伸びすぎているようで、彼は目にかかる前髪を二度三度とかき上げた。
ピンク色の唇は相変わらずツンと尖っている。そして薄茶色の目をじっくり見つめると、その2つの目には物欲しそうな俺の顔がしっかりと映し出されていた。
ほどなく俺は彼の目から視線を逸らした。じっと見つめているとどうしても気持ちが高ぶってしまうからだ。
すると少年は何もない部屋をグルッと一周見渡し、ちゃぶ台の上に肘をついてものすごいお世辞を口にした。
「いい部屋だね」
ウソ言うなコノヤロー。と思いながら呆れた顔でまた彼を見つめたけど、笑っている薄茶色の目がとてもカワイく見えてしまうのは……やっぱり惚れた弱みというやつだろうか。
彼はそれからケーキの入った箱をゴソゴソと開け始め、上目遣いで俺に1つ注文を出した。
「ねぇ、マッチ貸して」
「あぁ……うん」
俺は立ち上がり、キッチンに置いてあるキャバレーのマッチを彼に渡した。
それから温風を撒き散らすクーラー本体を二度拳でぶん殴った。するとうまい具合にほどよく涼しい風が部屋の中に吹き荒れた。

 俺は少年に少しだけ近づきたくて、今度はドサクサ紛れに彼の隣へヒョイと腰かけた。
少年が箱から取り出したのは、生クリームたっぷりのイチゴのケーキだった。そしてその真ん中には『ダイスケくんお誕生日おめでとう』という文字がチョコレートで書かれていた。
彼がサラサラな前髪をかき上げ、俺を見つめた。形のいい鼻は真っ直ぐ俺に向けられていた。
「お兄さんの名前、大輔くんでいいんだよね?」
「……うん」
「カワイイ名前だね」
「サンキュ」
あんまりそんな事ばかり言われても困る。もうシンボルが爆発しそうだ……

 俺が理性と闘っている間、何も知らない彼はイチゴとイチゴの間に色とりどりのろうそくを突き刺していった。
そして22本のろうそくを全部立てた後、キャバレーのマッチで1本1本火をつけていった。
1本のろうそくは俺の人生1年分を表している。 22本目のろうそくに火が灯された時、これからの1年を自分はどんなふうに生きていくんだろうとぼんやりした頭の中で考えた。
「お兄さん、火を一気に吹き消して」
「分かった」
俺は思いきり息を吸って、フーッとろうそくの火に吹きかけた。
するとほとんどのろうそくが消えてちゃぶ台の上に白い煙が舞い上がったけど……ピンク色した22本目のろうそくだけ火が消えずに残っていた。
「1本残っちゃったね」
そう言ってフッと最後の火を消したのは、少年の甘い吐息だった。
「お兄さん、お誕生日おめでとう」
オメデトウのキスが、彼の贈り物だった。その薄い唇が頬に触れた瞬間、すり切れた畳の上に彼を押し倒してやってしまいたい……と強く思った。
でも、思うだけで実際に彼に手を出す事はタブーだ。
それを分かっていながら彼をここへ連れてきたのは俺だけど……この我慢が永遠に続くのかと思うとゾッとした。 ケーキの上のろうそくが何本増えても、ずっと我慢は続くのだ。
拳で気合を入れただけあって、その日は珍しくクーラーの調子がよかった。部屋の中がとても涼しい。 ただ……俺は彼と一緒にいる限り、きっといつでもハートとシンボルは熱いだろう。
こんなにカワイイ事ばかりされたら、本当に気持ちも性欲も抑えきれなくなってしまう。
なのに……俺がものすごく努力して自分を抑えているのに、彼はいろんな方法で俺を誘惑し続けた。

 彼はフォークに生クリームの付いたケーキを一切れ乗せて、それを俺に食べさせようとする。
嫌だと言うのに……それを俺の目の前に持ってきて口を開けろと言う。
「ねぇ早く。食べさせてあげるから口開けて」
「嫌だよ。ガキじゃあるまいし」
「一切れだけ。恥ずかしがらないで」
「恥ずかしがってなんか……」
俺は目の前に迫るフォークを回避しようとしてどんどん後退し、ついには1つしかない窓にガン、と頭をぶつけてしまった。この部屋はいつまでも逃げきれるほど広くはないのだ。
痛い……頭の後ろがズキズキ痛む。そして目の前にはフォークに突き刺さった一切れのケーキ。どこもかしこも頭の痛くなる問題ばかりだ。
しかたがない。
俺は観念してそれをパクッと口に入れた。すると口の中に甘いクリームの味が広がった。
「おいしい?」
少年の顔があまりにも近い所にあった。 薄茶色の目も、形のいい鼻も、俺を惑わせるピンク色の唇も、俺の顔からわずか10センチ先にある。 逃げ出したいけど、後退したいけど、俺のすぐ後ろには窓があって……とても身動きができない。
「クリームが口についてるよ」
「えっ……」
俺は少年にそう言われ、唇を手の甲で拭おうとした。
だがその瞬間彼の顔が更に近づいてきて目の前が暗くなり……その後、俺は少年に唇を奪われた。 彼の薄い唇は、その時間違いなく俺の唇の上に存在していた。

 部屋中の景色が歪む。
ちゃぶ台も、冷蔵庫も、テレビも、すり切れた畳も、みんなグネッと曲がった変な形に見える。
だが1番近くにある右手にフォークを持った少年の顔だけが……やけにはっきりと俺の目に映し出された。
少年の下唇には俺の唇から奪い取った白いクリームが付いていた。 彼はピンク色の下唇を自分の舌でペロリと舐め、それから無邪気な笑顔を見せて おいしかった、と一言言った。
「お兄さん、残りも早く食べようよ」
何事もなかったかのように俺に背中を向けて、ちゃぶ台の上に乗っかるケーキに再びフォークをぶっ刺した彼。
その小さな背中は手が届く所にあるはずなのに……俺の目からは遥か遠くに霞んで見えた。