10.
ある朝僕は、チビにアパートの合鍵を渡した。
それまでチビは、僕がバイトへ行っている間は部屋へ閉じこもっているしかなかった。
今まで彼に合鍵を渡さなかったのは、1人歩きをさせるのが心配だったからだ。
でも時々チビがふさぎ込むのを見ていると、彼にも気分転換が必要だと判断した。
だから僕は、彼が自由に外へ出られるように合鍵を渡す決心をしたのだった。
その朝バイト先へ向かう時、僕はチビと一緒に外へ出た。
彼が朝の散歩をするというので、2人揃って部屋を出たのだ。
「どこへ散歩に行くんだ?」
アパートの前の道へ出てそう尋ねた時、チビは少し笑って太陽に手をかざした。夏の朝日は、あまりにもまぶしかったのだ。
「トシくんはどっちへ行くの?」
「こっちだよ」
僕が人さし指を東の方へ向けると、彼は間髪入れずにこう言った。
「じゃあ、ボクもこっち」
チビは右手の指で拳銃の形を作り、その銃口を僕のさした方角へ向けた。
それから僕は、すぐに歩き出した。すると彼は少し距離を置いてその後を追いかけてきた。
この日の朝は、いつもと少し違っていた。あたりがやけに静かで、毎朝見かける学生の姿がまったく目に入らなかったのだ。
僕の耳に響くのは、自分とチビの足音だけだった。この日は風がなかったので、木の葉のざわめきさえ聞こえる事がなかった。
空気はとても乾いていて、一歩歩くたびに土埃が舞い上がった。
やがて右手の方に、このあたりで1番大きな家が見えてきた。
白い塀に囲まれたその家は、小さなアパートの多い道沿いで異彩を放っていた。
クリーム色の壁をした、大きくて真四角な家。しばらくすると、そこからメガネをかけた初老の男が出てきた。
彼は白髪頭ですごく恰幅がいい。
その人は毎朝同じ時間に、ダークなスーツを身に着けてゆっくりと外へ出てくるのだった。
いつもと同じ朝の光景をやっと1つ目にして、僕はその時すごくほっとした。
その人の姿を前方に確認した時、僕はふと道の真ん中で立ち止まった。
すぐに後ろを振り返ると、5メートルぐらい先でチビも同じように立ち止まったのが分かった。
「あまり遠くへ行くなよ。道に迷ったら、帰れなくなっちゃうぞ」
「大丈夫!」
彼はすかさずそう答え、唇を横に広げて微笑んだ。
この時僕たちの目線は、ほとんど同じ高さにあった。
チビの成長はすごく早くて、この勢いではすぐに背丈を追いこされそうだった。
彼のために買った洋服は、とっくにサイズが合わなくなっていた。
逆に最初は引きずっていた僕のジーンズが、彼にピッタリになりつつあった。
「やっぱり一緒に歩く!」
しばらくすると、チビがそう叫んで僕に駆け寄ってきた。
その声はひどく掠れていた。彼はそろそろ変声期を迎えようとしていたのだった。
その朝チビはご機嫌で、白いティーシャツを揺らして弾むように歩いていた。
道端に咲く花を見つけては微笑み、走り去る車に大きく手を振る彼。
僕はそんなかわいい仕草を見るたびに、彼を愛しく感じていた。
「ねぇ、今の車、大きな浮き輪を積んでたよ。これから泳ぎに行くのかな?」
僕たちが白い乗用車とすれ違った後、不意に彼がそう言った。
その時僕はやっと気付いたのだった。
世間は夏休みに入ったのだ。制服を着た学生の姿をまったく見かけないのは、きっとそのせいだったのだ。
「ボクも泳ぎに行きたいな。冷たい水に入ったら、すごく気持ちが良さそうだもん」
チビは歩きながらそう言って、ティーシャツの袖口で額の汗を拭った。風のない夏の日は、暖房過多な部屋のように暑かった。
僕は不意にチビと2人で見た修学旅行の写真を頭に浮かべた。
目を輝かせて楽しそうに笑う自分。たしかその後ろには、名前も忘れた湖があった。
どうしようもなく暑い夏の日に、冷たい水へ飛び込む。そうすれば、またあの頃の笑顔を取り戻せそうな気がした。
「今度仕事が休みの時、海に行ってみようか?」
「え? 本当?」
僕が遠出の提案をすると、チビは目を見開いてとても嬉しそうに笑った。
彼の頬にエクボが浮かんだ時、僕はすごく幸せな気分になった。
バイト先の漫画喫茶は、国道の少し手前にあった。
古ぼけたビルの1階にあるガラス戸を開けると、そこにはズラリと漫画の本が並んでいるのだ。
1人の時にはそこまでの距離がかなり遠く感じるのに、チビと2人で歩くとあっという間にたどり着いてしまった。
ビルの隣のそば屋は、まだシャッターを下ろしたままだった。
僕はそば屋の前で立ち止まり、彼にもう一度声をかけた。
「じゃあ、僕は行くよ。お前、1人でちゃんと帰れるか?」
チビは僕の問い掛けに笑顔で応えた。
彼は笑うとすごくかわいい。
少し頬がスッキリして、出会った頃より随分大人っぽくなっていたけれど、あどけない笑顔は以前とまったく変わっていなかった。
「なるべく早く帰ってきてね」
チビの汗ばんだ両手が、僕の右手を強く握った。
彼は最後まで笑顔を絶やさなかった。でも汗ばんだ2つの手は微かに震えていた。
チビの肩越しに、国道を走る車の姿が次々と見えた。だけどその時、あたりに人影はなかった。
真夏の太陽の下で、ほんの一瞬だけ僕たちの唇が重なった。
なんとなくキスの予感がして目を閉じると、チビがそれに応えてくれたのだった。
それはすごく短いお別れのキスだった。
強く握られていた右手が解放され、遠ざかる足音を聞いた時、僕はゆっくりと目を開けた。
その時にはすでに彼の背中が遠くに見えた。
チビは今来た道を全速力で引き返していた。白いティーシャツと二色の髪を揺らし、決して振り向かずに走り続けていた。
彼が大地を蹴ると、土埃が大きく舞い上がった。
僕はどんどん小さくなっていく背中を少しの間見つめていた。
ほんの数時間の短い別れだというのに、急に淋しくなって薄っすらと目に涙が浮かんだ。
そして僕は、大きく目を開いて空を見上げた。真夏の朝の太陽に、今すぐ涙を乾かしてほしかったから。