15.

 翌週僕は、初めてチビに嘘をついた。
その日は本当は仕事が休みだったのに、彼にはまったくその事を告げず、普段通りにバイト先へ行くフリをしてアパートを出たのだ。
「最近仕事が忙しいから、もしかすると今日は帰りが遅くなるかもしれない」
僕は外へ出て見送ってくれたチビに、多少の後ろめたさを感じながらそう言った。
彼が一瞬淋しそうな表情を見せると、その時はすごく胸が苦しくなった。 それでも僕は、すべてを振り切って歩き出した。
もちろん仕事のない日にバイト先へ行くはずはない。僕はその朝、まったく別の目的を持って出かけたのだった。
最寄の駅へ辿り着くまでは、チビが追いかけてこない事を祈って何度も後ろを振り返った。 でも本当は、心のどこかで彼が追ってくる事を望んでいたような気もする。

 駅へ着いて乗客の少ない電車に乗り込むと、窓際の席に腰掛けて大きく深呼吸をした。
通勤や通学のために出かけていく人たちは、ほとんどが街の中心部へ向かう電車に乗っていた。 その電車は隣のホームに入っていて、中は人でごった返しているようだった。
やがて僕の乗った電車が動き出すと、満員電車の姿がゆっくりと視界から外れていった。 すると窓の向こうに朝の街並みが見えて、僕を照らす太陽の温もりを肌に感じた。
心地よい電車の揺れに身を任せ、目を閉じて二宮と再会した時の事を頭に浮かべてみる。
僕はこの時、たった1人で彼の暮らすマンションへ向かおうとしていたのだった。


 「トシくんは、全然変わってないね」
二宮は僕の顔を見てクスッと笑った。
僕はその時黙っていたけれど、彼にはまったく逆の言葉を返したいと思っていた。

 僕と二宮の関係は、とても薄っぺらなものだった。 だけどそう思っていたのは、もしかして僕の方だけだったのかもしれない。
僕たちは中学の時の同級生だったけれど、2人は同じクラスではなかった。
彼と一度だけ接点を持ったのは、2年生の秋の事だ。
僕はその日の昼休みに、校庭へ出て友達とドッジボールをしていた。 その最中に喉が渇いて水のみ場へ行った時、偶然彼と出くわしたのだった。
その時校庭には男子生徒がたくさんいた。 当時は男子の間でドッジボールが流行っていて、昼休みの校庭にはいつも学ランの集団があったのだ。
彼らに背を向けて駆け出すと、遊びに興じる男たちの声が徐々に耳から遠ざかっていった。
水のみ場は校舎の裏側にあった。
そこへ辿り着くまでに、僕は空を飛ぶ赤とんぼを5匹も発見した。 あれが秋の出来事だったと確信するのは、その事をはっきりと覚えていたからだ。
校庭を離れて砂利が敷かれたスペースを走ると、足元でガチャガチャと石ころのぶつかり合う音がした。
水のみ場のステンレスが、秋の日差しを受けて強い光を放った。 僕は喉がカラカラだったので、急いでその光に駆け寄った。 そして冷たい蛇口に手を触れた時、水のみ場の奥でうずくまっている人を発見したのだった。

 その人は敷き詰められた砂利の上に座り、右手を額に当てて俯いていた。
彼のズボンは膝のあたりに土が付いて汚れていた。 僕がその人の名前を知ったのは、上着の胸ポケットに "二宮" と書いてある名札を見つけたからだった。
僕は最初、彼がそこで泣いているのかと思った。パッと一瞬顔を見た時に、頬に光るものが見えたからだ。
でもよく見ると、それは涙とは違っていた。 彼の頬にスーッと音もなく流れ落ちたのは、真っ赤な色をした液体だったのだ。
「怪我をしたの?」
僕は水道の蛇口から手を離し、彼に駆け寄って声を掛けた。 すると二宮はゆっくりと顔を上げたけれど、彼の目は僕を通り越して遠くを見つめていた。
力なく下ろされた右手は、血の色に染まっていた。 そして右の眉の上には、2センチほどの深い傷が刻まれていた。
あまりに痛々しい傷から目を逸らすと、足元にゴツゴツした石が1つだけ転がっているのが見えた。 その石はガチャガチャ音をたてる丸っこい砂利とは明らかに違っていて、その一部にはわずかな血痕があった。
もう一度彼の顔を見ると、片方の頬が真っ赤になっていた。 眉の上の傷から次々と血が溢れ出して、皮膚の色をすっかり変色させていたのだ。
僕はとっさに黒いハンカチを取り出し、それを傷口に当てて流れ落ちる血をなんとか止めようとした。 するとその時、一緒に遊んでいた友達が走って僕を追いかけてきたのだった。
「トシくん!」
砂利を踏みつけるガチャガチャという音が後方から聞こえ、続いて僕を呼ぶ友達の声があたりに響いた。
すると二宮は突然立ち上がり、逃げるようにそこから走り去った。そして僕の手には、血の沁みたハンカチだけが残されたのだった。

 僕と二宮の接点は、たったのそれだけだった。
僕はそれから彼の事が気になっていたけれど、その後全然姿を見なかったから、だんだんその記憶は薄れていった。

 あの時僕は、気付いていた。
二宮は誰かに石をぶつけられ、血を流してあそこでうずくまっていたのだ。
あれは事故だったのか、それとも誰かと揉めてそうなったのか。 そこまではよく分からなかったけれど、とにかくあの状況がすべてを物語っていた。
視点の定まらない目と、何も語らない唇。汚れたズボンと、真っ赤な血。
それを思い出すだけで、当時の彼が何か問題を抱えていたという事は容易に想像ができた。

 最初に会った時の彼は、暗い影を背負っているように見えた。でも数年ぶりに再会した彼は、笑顔のまぶしい少年に成長していた。
丸い目とふくよかな唇が明るい表情を作り出し、彼の話す声はすごく穏やかに思えた。
今の彼はきっと、何の問題もなく幸せに暮らしているのだ。
二宮の表情からそれを読み取った時、僕は心からほっとしていた。
「まさかこんな所でトシくんと会えるとは思わなかった」
「そうだね」
「トシくんは、どうしてここにいるの?」
「実家を出て、こっちでアパート暮らしをしてるんだ」
「へぇ、偶然だな。俺も今こっちで暮らしてるんだよ」
僕たちは曇り空の下で短い会話を交わした。思えば彼と最初に会った日も、空には雲が広がっていた。
二宮は風になびく前髪を指で整え、さりげなく眉の上の傷を隠そうとしていた。 その仕草はとても自然で、遠い過去を引きずっている様子は微塵も感じられなかった。

 彼の前髪が綺麗に整った時、真っ白な手がゆっくりと僕の頬へ伸びてきた。
二宮は突然引き締まった表情になり、昔を懐かしむような目でじっと僕を見つめた。
「俺、ずっとトシくんを忘れた事はなかったよ」
頬に触れる手の感触が、心の奥にまでジワジワと伝わった。そして僕は、その温もりに癒された。
「今度俺のマンションに、遊びに来ないか?」
二宮は、囁くような声でそう言った。
僕はその時からすでに、チビを裏切り始めていたのかもしれない。