16.

 20分後に電車を降りて駅の改札を出ると、そこには二宮がいた。
あらかじめ約束していた通り、彼はちゃんと僕を迎えにきてくれたのだった。
「こんなに朝早くに、ごめんね」
僕は二宮に駆け寄り、まずは早朝に彼を訪ねた事を詫びた。
バイト先へ行くフリをするには、いつもの時間にアパートを出るのが望ましいと僕は考えた。 でもそうすると、彼を訪ねる時間がおのずと早くなってしまう。
僕たちが落ち合ったのは7時半頃で、それは人の家へ行くには明らかに早すぎる時間だった。
「夏休みでヒマだから、別に構わないよ。逆に早く会えて嬉しいし」
二宮はそう言って優しく笑った。
赤茶色の髪はボサボサで、彼は明らかに寝起きの様子だった。それでも二宮は、決して迷惑そうな顔を見せなかったのだ。

 二宮のマンションは駅から徒歩3分ぐらいの所にあった。
その隣には小さな本屋があったけれど、さすがにその時間は閉まっていた。 でも向かい側に並ぶ2つのカフェは開店していて、そこには意外にもたくさんの客が入っているようだった。
「ここは駅が近いせいか、夜になっても車の音がうるさいんだ。朝は早くから賑わってるし、あまり静かな時がないんだよ」
マンションの前へ行き着くと、彼が歩く速度を緩めた。
僕たちは出勤するサラリーマンとは反対の方へ向かって歩いてきた。 人の波とは逆の方向へ行こうとする僕は、どんどん人の道から外れていくような気がしていた。
「今日も曇り空だな」
二宮は空に広がる雲を見つめて、独り言のようにそうつぶやいた。
僕たち2人が一緒の時、太陽はいつも影を潜めているのだった。


 彼の部屋は、男の匂いがした。
母さんは僕と弟の部屋へきていつも「男臭い」と言ったけれど、僕にはその時初めて彼女の言う事が分かった。
「そのへんに座って」
彼がそう言ってベランダの戸を開けると、今度は外の風の匂いを感じた。
僕は冷たい床の上に座り、広い部屋の中を観察した。
低いベッドの上には丸まったタオルケットが置かれ、たんすの引き出しからは洋服の袖がはみ出ていた。 台所に汚れた食器が放置されているのを見た時には、何故だかすごくほっとした。
二宮はベランダに干してある洗濯物をせっせと取り込んでいるようだった。
彼の背中の向こうには、灰色の空がどこまでも続いていた。

 「全部乾いててよかった!」
しばらくすると、彼が床の上に洗いたての衣類を全部投げ出した。二宮は僕の隣であぐらをかき、それからそれを1枚ずつたたみ始めたのだった。
「洗濯物がいっぱい溜まってたんだけどさ、昨日全部洗ったんだよ」
ため息混じりのその声は、すぐに風に溶けていった。
僕が衣類をたたむのを手伝い始めると、彼は口許だけで軽く微笑んだ。
「掃除や洗濯って、結構大変だよね。毎日やってると、本当にそう思うよ」
「トシくんは毎日洗濯するのか? 随分マメだな。俺なんて、明日はくパンツがなくなるまでやらないぞ」
「別にマメなわけじゃないけど、もう習慣になってるから」
「そうか。でも1人になってみると、親のありがたみが分かるよな」
「そばにいる時はうるさく感じるけどね」
「そうそう。それが嫌で家を出たんだけどさ」
「僕も同じだよ」
僕たちは時々目線を合わせて言葉を交わした。
こんな何気ない会話が、僕にとってはすごく新鮮だった。 1人暮らしの苦労を語れる友達が、今まで1人もいなかったからだ。

 洗濯済みの衣類は、5分もしないうちに折りたたまれて床の上に積まれた。
1つ仕事が片付くと、二宮は自分の近況を語り始めた。 彼は大学で法律を学びながら、遊びの方にも精を出している様子だった。
「この前徹夜で麻雀をやったんだ。でも俺は負けっぱなしさ。悔しいから、今は麻雀ゲームで特訓してるんだ」
そう言って笑う彼は、昔の彼とはまったくの別人だった。
色褪せたティーシャツを着ていても、ヨレヨレのズボンをはいていても、その笑顔はひたすら明るかったのだ。
しばらく2人で時間を過ごすと、徐々に彼の癖が分かってきた。 時々鼻の頭を掻いたり、耳たぶを引っ張ったりするのがそれだ。
僕は彼の話に耳を傾けながら、その間に何回耳たぶが引っ張られるかを数えていた。
友達とドライブへ出かけた時の事や、たくさん買い物をした時の事。 そんな話をする時も、彼の手は幾度となく自分の耳たぶに触れていた。
「トシくんは、仕事をしてるのか?」
ある時突然そう聞かれ、近所の漫画喫茶でバイトしている事を彼に打ち明けた。 すると彼は、何度かその姉妹店に行った事があると言い出した。
「僕の友達だって言えば、利用料金が半額になるよ」
僕がそう言うと、二宮は嬉しそうに笑った。 彼はしょっちゅう小遣いが足りなくなるそうで、何でも安くなるのは歓迎だと言っていた。

 ベランダの向こうから次々と風が入ってきて、部屋の中はとても涼しかった。 自然な風をずっと浴びていると、それだけでなんとなく心が和んだ。
「大学は、ここから近いの?」
「バスで15分ぐらいかな。渋滞するとその倍ぐらいかかるけど」
「学校生活は、楽しそうだね」
「中学の頃に比べたら、今はかなり楽しいよ」
二宮は半分笑いながらその質問に答えた。
その時僕は、話がまずい方向へ進んでしまったと思っていた。
僕たちが共有する中学の思い出といえば、もちろん1つしかない。でもその話題を持ち出す事は、絶対にタブーだと思っていた。
あの日の彼に、いったい何があったのか。 もちろんそれを知りたい気持ちはあったけれど、彼の過去には触れてはいけないような気がしていたのだ。
でも僕の心配をよそに、彼はすぐに自分から当時の事を話してくれたのだった。
「俺、中学の時に5回も転校してるんだ。 親父がちょっとやばい奴でさ、俺とおふくろはあいつから逃げたんだよ。 でも引っ越してしばらくすると、必ず親父に見つかっちゃうんだよな。 そのたびにまた逃げて、見つかって。 あの頃はずっとそれの繰り返しだったんだ」
僕はその言葉に少なからず衝撃を受けた。 当時の彼に何かがあった事は想像できたけれど、まさかそれほどの事とは思わなかったからだ。

 一旦会話が途切れると、外の風が容赦なく僕たちの髪を揺らした。
彼の部屋はマンションの8階で、周りに高い建物がないせいか、かなり強い風が入ってくるようだった。
僕はチラチラと二宮の顔色を伺った。
彼の目線はベランダの外へ向けられ、唇はきつく結ばれていた。
その表情からは、何も読み取れなかった。僕には彼が、何の感情も抱いていないように見えたのだ。
だけどそれは、完全に思い違いだった。 彼はその後、まったく違った形で自分の感情を露にしたのだった。