19.

 電車を降りてアパートへ向かう時、僕は自然と早歩きになった。
空は雲に覆い隠され、あたりは妙に暗い。
こんな時間までチビを1人にするのは初めてだったので、彼の事がすごく心配になった。 多少の物足りなさはあるけれど、チビは僕にとって大事な人だから。
仕事を終えて家路につく人たちは、誰もがのんびりと歩いていた。 その人たちの横を颯爽とすり抜ける僕は、彼らの目にどんなふうに映っていたのだろう。

 いつもの僕なら、アパートの屋根が見えてくるとほっとするはずだった。
なのに今日は、その瞬間に変な胸騒ぎがした。外はもう薄暗いのに、僕の部屋の窓には明かりが点いていなかったからだ。
周りを見回すと、ポツポツと明かりの点っている窓が見えた。それを確認すると、僕はますます不安になった。
チビはいったい電気も点けずに何をしているのだろう。
お腹が空きすぎて倒れてしまったのか。それとも、僕がなかなか帰らないから怒って出て行ってしまったのか。
マイナスイメージばかりが頭に浮かび、僕はとうとう駆け出した。
すれ違う人たちが、皆僕を見ているような気がした。そしてその視線が、自分を責めているような気がした。

 ごめんね、チビ。
 もう絶対お前に嘘をついたりはしない。
 明日からは、きっと明るいうちに帰るから。
 2度と今日みたいな事はしないって、ちゃんと約束するから。
 だから、僕の気の迷いを許してほしい。
 お前にはずっと、僕のそばにいてほしい。

 すさまじい勢いで走ったせいか、アパートへ辿り着いた時にはもう息切れがしていた。
階段を上りきったら、僕たちの城は目の前だ。それなのに、足が重くてなかなか前へ進まない。
それでも僕は、一段ずつ確実に階段を上った。動悸は激しかったし、太ももの内側が痛かった。 だけど今は、そんな事を嘆いている場合ではないのだ。

 やっと部屋の前へきたのはいいけれど、今度は鍵を開ける間がもどかしい。 気が逸って、イライラして、思わずドアを蹴りたくなる。
「チビ!」
ドアが大きく開いた時、一瞬前へつんのめりそうになった。 魂は前進しているのに、体がそれについていけなかったのだ。
玄関は薄暗くて、周りがよく見えない。靴を脱ぎ捨てる時、どこかにぶつかって膝に激しい痛みが走った。
「チビ……」
僕は這うようにして部屋の中へ転がり込んだ。
部屋の中も、玄関と同じように暗かった。その様子は、もちろんすぐには分からない。
汗をかいた体に、エアコンの風が吹きつける。部屋の空気は、異常に冷えていた。
僕は肩で息をしながら立ち上がり、急いでそこに明かりを点した。
すると急激な視覚の変化についていけず、一瞬目が幻惑されてしまった。 僕は何度もきつく瞬きを繰り返し、幻惑が解消されるのを待つ事にした。

 しだいに目が慣れてくると、周りの様子がはっきりと見えてきた。
チビは裸でベッドの上に横たわっていた。彼はうつ伏せに寝ていて、丸い尻が堂々と曝け出されていた。
枕に埋もれた頬へ顔を近づけると、静かな寝息が僕の鼓膜を揺らした。
それから僕は、注意深く彼を観察した。
でも特に、変わった様子は見受けられなかった。 肌の色は綺麗だし、息は整っているし、何かのダメージを受けているふうでもない。
「はぁ……」
彼の無事が分かると、急に気が抜けて床の上にヘナヘナと座り込んだ。
するとすぐに、日常の風景を目の当たりにする事となった。
テーブルの上には、食べ終えたカップラーメンの容器がそのまま置いてあった。
台所には、汚れたグラスや皿などが放置されている。そして部屋の隅には、チビの脱ぎ捨てた洋服が散らばっていた。
僕が少しぐらい遅く帰ったからといって、何も変わる事はなかった。 チビは僕がいなくてもちゃんとご飯を食べられるし、1人で眠る事だってできるのだ。
彼は一時モゾモゾと動いたけれど、目は覚まさずに相変わらず寝息をたてていた。
すなわちこれが、今の僕の現実だった。
これから僕は、チビを起こさないようにそっと立ち上がり、いつものように掃除と洗濯を始めなければならないのだった。