20.
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
二宮の声が、背中に真っ直ぐ突き刺さる。それでも僕は、黙ってシャツのボタンを留めていた。
もう決してチビを裏切らないと誓ったはずなのに、仕事が休みになるとまた当然のように彼のマンションを訪れてしまった。
後悔する事は分かっているくせに、僕はどうしても彼の愛撫を忘れられなかったのだ。
ベランダの向こうは、まだ明るい。日が暮れる前にアパートへ帰る事が、せめてもの罪滅ぼしだと思った。
僕は床の上に転がるズボンを拾い上げ、急いでそれに足を通した。するとその時、裸の二宮が突然背中に抱きついてきた。
「俺……トシくんが帰った後、すごく淋しくなるんだ」
悲しそうなその声が、右の耳をそっとくすぐった。
優柔不断な僕は、ついもう一度彼を抱きたくなってしまう。でも、そんな事はできやしない。僕はそこまで悪い男にはなれない。
「なぁ、ここで一緒に暮らさないか?」
真剣な口調でそう言われると、僕は少し動揺した。チビがいる限り、二宮と一緒に暮らす事など到底考えられない。
僕には同居人がいるから、それは無理だよ。
もしも正直にそう言ってしまったら、きっとすぐに彼を失う事になる。でも僕は、どうしてもそれだけは避けたかった。
「ごめん。今猫を飼ってるから、ちょっと難しいと思う」
このマンションでは、ペットを飼う事が禁止されていた。僕はそれを知っていて、咄嗟にそう言ったのだった。
スラスラとそんな言葉を吐く自分に、心底嫌気がさした。
僕はいったいいつからこれほどずるい人間になってしまったのだろう。
その夜は、頭上に満天の星が広がっていた。
僕は夕食の後チビを外へ連れ出し、のんびり歩いて近くを流れる川へ向かった。
その途中にコンビニへ寄って仕入れたのは、夏の風物詩ともいえる花火のセットだった。
川の淵は少し風が強かった。でも花火をするのに支障が出るほどではなかった。
向こう岸には、ポツポツと小さな光が見えた。そこにはきっと、僕らのように花火を楽しむ人たちがいたのだろう。
「トシくん、何してるの?」
「いいから、見てろよ」
僕は付近に転がっている大き目の石の間にロケット花火を立てていた。
チビは花火をするのが初めてだったようで、僕が何をしているのかさっぱり分からない様子だった。
「ちゃんと見てろよ」
「うん」
彼は不思議そうに僕の手元を眺めていた。その時は、川を流れる水の音があたりに響き渡っていた。
風が止んだ瞬間を狙って、素早くマッチに火を点ける。
それが導火線に引火すると、ヒューッと音をたててロケット花火が夜空に飛んでいった。
「わーっ、すごい!」
チビは興奮気味に叫んで、何度も拍手を繰り返していた。
彼には知らない事がたくさんある。だからこそ、新鮮なものに触れると子供のようにはしゃぐ。
そんなチビを見ていると、僕は自然と心が穏やかになるのだった。
2つ目のロケット花火は、チビが自ら火を点けた。そして彼は、花火の行く先をしばらく目で追っていた。
「ねぇ、花火は空に飛んでいって星になるの?」
真顔でそう言うチビが、とてもかわいかった。彼は終始笑顔で、その頬には常にエクボが浮かんでいた。
「ボクもいつか、空に飛んでいけるかな」
満天の星を見つめて、彼が小さくそうつぶやいた。時折突風が吹くと、緩めのティーシャツが風に膨らんだ。
チビは夜空に向かって両手を伸ばすような仕草を見せた。彼は遠くに見える星を、自分の手で掴み取ろうとしていたのだった。
「すぐに手が届きそうなのに、全然触れられない」
サンダルを履いた足でジャンプしても、もちろん星に手が届くはずはない。それでもチビは、何度も何度もジャンプを繰り返した。
僕は川の流れる音を聞きながら、チビが飛び跳ねるのをいつまでも眺めていた。
花火を終えてアパートへ帰る時、突然チビがある物を指さした。それはこのあたりで1番背の高いマンションだった。
「ねぇ、あそこの上でジャンプすれば、星に手が届くかな?」
彼はまだ星を掴む事を諦めていないようだった。チビの目があまりにも真剣だったので、僕はその夢に付き合う事にした。
「そうだな。あの上なら、なんとかなるかもしれないな」
「本当?」
彼は目を輝かせ、いきなり僕の手を引いて駆け出した。
手を繋いで横断歩道を渡る時、車のライトがすごく眩しかった。
できればこのまま、2人で空へ飛んでいきたい。
アスファルトの道を走っている時、僕は漠然とそんな事を考えていた。
僕たちは、マンションの非常階段を急いで上った。チビは僕の手を握り締め、率先して前を走っていた。
2人の足音が、静かな闇にこだまする。
20階以上もあるマンションの屋上へ駆け上がる事は、はっきり言って容易ではなかった。
階段の途中で地面を見下ろすと、その高さに一瞬めまいがした。
その時僕は、チビを心配してアパートの階段を駆け上がった事をふと思い出していた。
屋上へ続くドアが目の前に迫ってきた時、僕たちはかなり息が上がっていた。そして、繋いだ2つの手はしっとりと汗ばんでいた。
屋上に立って夜空を見上げると、たしかに少し星が近くなったような気がした。
周りに高い建物が存在せず、空を遮るものが何もなかったせいだろうか。
チビは白いティーシャツを揺らして、何かに取り付かれたかのように何度も両手を上げてジャンプを繰り返していた。
彼はすこぶる元気だったけれど、僕はもう疲れきっていた。体中が汗だくで、シャツが肌にピッタリと貼り付くのが分かる。
ゆっくりと屋上の手すりに近付き、そこに寄り掛かってひとまず座った。
コンクリートの床は、冷たくてすごく気持ちがよかった。視線の先では、尚もチビがジャンプを続けていた。
彼の気が済むまで、やらせてあげよう……
僕はそう思いながら黙って座っていた。
彼が何故それほど星を掴む事に固執したのか。その訳は、僕には到底分からなかった。
汗がすっかり乾いた頃、チビが残念そうな顔をして僕の横に腰掛けた。
彼はまだ諦めきれないようで、じっと夜空を睨み付けていた。
「大丈夫。いつかきっと星に手が届く時がくるよ」
その時僕は、気休めにそう言った。チビは小さくため息をついて、やっと僕を見てくれた。
二色の髪があまりにも乱れていたので、そっと手櫛で整えてやる。
屋上は、川の淵と同じぐらい風が強かった。でも熱くなった体には、その風がとても心地よく感じた。
彼が腰を上げた時、僕はまたジャンプの続きを始めるのかと思った。
でもそれは違っていた。チビはゆっくりと僕の膝の上にまたがって、短いキスをしてくれたのだった。
「トシくん、好き」
チビは僕の肩に手を置いて、にっこりと微笑んだ。その時僕は、強い風の音を聞いた。
細い指が、僕のズボンのウエストを緩めた。そして僕も、当然のように彼のジーンズを両手で下げた。
僕は短いキスをした時から勃起していた。チビのジーンズを下げた時、彼の方も準備が整っている事を覚った。
コンクリートのデコボコが、剥き出しの尻に触れて少しだけ痛かった。
一旦腰を浮かせたチビが、うまく当たりをつけて僕の一部を穴の中へ招き入れる。
僕たちはその瞬間に、満天の星空の下で1つになった。
彼が腰を振ると、窮屈な壁が僕のものを擦り付けた。何度経験しても、その瞬間はすごく気持ちがいい。
溢れるような快感が何度も押し寄せ、徐々に体が痺れていく。
冷たい風を頬に受けると、異常に興奮した。外でセックスをするなんて、生まれて初めてだったからだ。
そっと天を仰ぐと、空に散りばめられた星たちが、ダイヤモンドのように輝いて見えた。
「あーっ!」
火薬の香りの残る手で、チビを優しく愛撫する。すると彼は、ドキッとするほど大きな声を上げた。
チビもかなり興奮していて、あっという間に僕の手が湿ってきた。
「あーっ! あーっ!」
そのうちに、それがどっちの声なのか分からなくなった。僕は感じていたし、チビももちろん感じていた。
2人で同じ気持ちになれる事が、僕にはすごく嬉しかった。
でも感じれば感じるほど、幸せの終わりがどんどん近付いてくる。温かく窮屈な壁が、少しずつ僕を追い詰める。
僕は体に力を入れて必死に射精を堪えた。それは、1秒でも長くチビとのセックスを楽しみたかったからだ。
夜空に浮かぶ星たちは、その一部始終を観察していた。
僕は誰よりもチビを愛していたし、チビも僕を心から愛してくれていた。
後から考えると、きっとこの頃が2人が幸せでいられた最後の時だった。