21.

 もう本当に、今のバイトを辞めたい。
僕が本気でそう思ったのは、8月も下旬に差し掛かったある日の事だった。
その日僕は、仕事の帰りが1時間以上も遅れた。レジのお金が大幅に合わなくて、店長に事情を聞かれたせいだ。
学校が夏休みの間、漫画喫茶は普段よりもずっと客が多くなっていた。
レジを打つ人間は店長も含めて5人いて、お金が合わなくなるとどうしてもその原因を追究しなければならなくなる。
でも結局原因ははっきりせず、店長は最終的に僕のミスを疑った。 その理由はきっと、僕がしょっちゅう仕事でドジを踏んでいるからだ。
それは仕方がないのかもしれないけれど、お金の事であれこれ言われるのはつらかった。
僕はまるでドロボウ扱いされたような気分になり、重い心を引きずって家路に着いたのだった。

 外はまだ暑かったけれど、空は秋色に変わりつつあった。
元気そうな子供たちが、笑顔で僕の横をすり抜けていく。彼らはきっと、残り少ない夏休みを存分に楽しんでいるのだろう。
木の枝に赤トンボが止まっているのを見ると、二宮との遠い思い出が頭に浮かんだ。
こんな日は彼に会って、仕事の愚痴を聞いてもらいたい。
僕は一瞬そう思ったけれど、チビの事を考えてその気持ちを心の奥へと押し込んだ。


 「トシくん、お帰り!」
アパートへ帰ると、チビが明るく僕を出迎えてくれた。
彼の笑顔はすっかり大人びていた。
頬のエクボは相変わらずだけれど、目の表情が以前と違って少し鋭くなったように感じた。
最近僕は、とうとうチビに背丈を追い抜かれてしまった。
それでいて彼を "チビ" と呼ぶ事は、なんだかおかしな気がしてしまう。
「今日はすごく天気がいいから、どこかへパーッと遊びに行こうよ!」
涼しい部屋の中へ入ると、チビがすぐにそう言った。
最近は帰ってすぐにセックスをする事は少なくなっていた。 休みの日は二宮と何度も体を重ねるから、体力的な事を考えるとそれは僕には好都合だった。

 こんな日は、チビの言うようにパーッと遊んで嫌な事を忘れてしまえばいいのかもしれない。
だけど物事は、そう簡単にはいかない。
僕は8月の始めにかなり奮発してチビと海へ旅行に出かけた。その時の散財が響いて、近頃は節制を余儀なくされていた。 公園でブランコに乗るぐらいはいいとしても、派手に遊ぶお金など財布に残ってはいなかったのだ。
しかもアパートへ帰ると、やるべき事がたくさんある。
壁伝いのロープには洗濯物が干されていて、まずはそれを取り込まなければならない。
僕は洗濯バサミを外しながら、ゆっくりと部屋の中を観察した。
テーブルの上には使用済みのグラスがあり、床にはお菓子の欠片が散乱している。 新たな洗濯物は部屋の隅に投げ出され、枕は今にもベッドから落ちそうになっていた。
「今日は遊びに行けないよ。昨日掃除も洗濯もサボったから、いろいろ仕事が溜まってるんだ」
僕が時々家事をサボるようになったのは、もちろん二宮の影響だった。
1日ぐらい掃除をしなくたって、人はちゃんと生きていける。 訳も分からず疲れてしまったら、何もせずにゆっくりと休めばいい。
ここには口うるさい母さんも、生意気な弟もいない。
ちょっとぐらいだらしのない暮らしを送っていても、誰にも文句を言われる事はないのだから。

 「少しでいいから遊びに行こうよ。ボク、トシくんがいない間すごく退屈してるんだ。だから、少しでいいから遊ぼうよ」
乾いた洗濯物を全部取り込んだ時、チビが甘えるようにそう言った。彼はドアの横に立って、僕の顔色をじっと伺っているようだった。
いろいろやるべき事はあっても、たかが20〜30分ぐらいの散歩ができないわけではなかった。 でも僕は、やっぱり遊びに行く気にはなれなかった。
「ごめん、チビ。今日はやっぱり無理だよ」
僕は彼の要求を退け、テーブルの上にあるグラスを台所へ下げた。
チビは一瞬口を尖らせるような仕草を見せたけれど、それ以上わがままを言ったりはしなかった。
冷蔵庫の中を覗いて、卵とハムが少しだけ残っているのを確認する。それから僕は、顔を上げてチビに今日の夕食メニューを打診した。
「夕食はチャーハンでいいか?」
僕はチビがそこにいると思って、最初はドアの方を見つめた。でももうそこに彼の姿はなかった。
チビはいつの間にかベッドに寝そべって、両手で枕を抱えていたのだ。
「いいよ。トシくんのチャーハン、大好きだから」
枕に頬を埋めて、チビがそっと微笑んだ。天使のように微笑む彼が、僕にはとても羨ましかった。

 夏の終わりの日差しが、二色の髪を明るく照らす。
チビのふくらはぎは、日焼けの色が薄らいで白く変わろうとしていた。
奮発して出かけた短い旅の記憶が、僕の心の中で同じように色褪せていく。
僕は床に膝をついて、もう一度ゆっくりと部屋の中を観察した。
取り込んだ洗濯物は、テーブルの脇に無造作に置かれていた。 台所に下げたグラスも、床に散らばるお菓子の欠片も、何も変わらずそこにある。
これから部屋を掃除して、洗濯もして、チャーハンを作って……その手順を考えると、僕は本当にうんざりしてしまうのだ。
冷蔵庫に寄りかかって座った時、背中が少し冷たく感じた。視線を宙に泳がせると、部屋中に埃が舞っているのが見えた。
「僕は、猫になりたいな」
僕はそっと俯き、誰に言うわけでもなく独り言のようにつぶやいた。この日の僕は、きっと自分が思う以上に弱気になっていたのだ。
「猫はいいよな。好きな時に寝られて、仕事もしないで、それでも楽しく生きていけるんだから……」
それは本当に小さなつぶやきだった。エアコンの風に消え入りそうな、囁くようなつぶやきだ。


 僕はほんのちょっと弱音を吐いた後、すぐに気を取り直して立ち上がるつもりでいた。
ところがその前に、そばでガタッと大きな音がした。その音を聞いて顔を上げると、ベッドの横にチビが立っていた。
彼の笑顔はすでに失われていた。チビは大きな目にいっぱい涙を浮かべて、きつく唇を噛んでいた。
ハッと気付いた時には、もう遅かった。
僕の言葉が、彼を傷つけてしまった。僕の言葉が、彼をひどく悲しませてしまった。
それが分かった時、チビがドアに向かって駆け出した。彼の動きはすごく早くて、その姿はあっという間にドアの向こうへ消えていった。
「チビ……!」
僕は立ち上がり、もちろんすぐに彼の後を追った。
玄関を出て、アパートの階段を下りて、素早く左右を見回してみる。
でもチビの姿はどこにもなかった。僕は、大事な彼を見失ってしまったのだ。
「チビ!」
夏の終わりの日差しが、ナイフのように背中に突き刺さった。
それから僕は、彼を追い求めてメチャクチャに走り続けたのだった。