24.

 自分が何時間その場所にいたのか、僕にはよく分からなかった。
風がすごく強かった。
時が過ぎるごとに体温が奪われ、そのうちに非常階段へと続くドアが視界から消えた。
体が冷え切ってしまうと、何も感じなくなる。 風の音も、寒さも、星の煌きも、全部僕から離れていくのだ。
僕はどうやら眠ってしまったようだ。まるで他人事のように、その事を理解した。
思考能力はとっくに失われていたし、体はすでに言う事を聞かなくなっていた。
ただ時々、断片的にチビの姿が目に浮かんだ。
真っ白な頬にエクボを浮かべて、チビがそっと微笑む。 そのたびに彼を捕まえようとするけれど、そう思った瞬間に笑顔は消えてしまう。
それは瞼の奥で、何度も何度も繰り返された。
僕は眠っている間も、ずっとずっと彼を追いかけていたのだった。


 ある時僕は、突然誰かに体を揺さぶられた。その時はすごく驚いて、いきなり動悸が激しくなった。
「坊や、大丈夫か?」
その声は、すぐそばで聞こえた。僕の聴力は、きっとその瞬間に回復したのだった。
それまでは何も感じなかったのに、急に体中に痛みが走った。 僕はずっとコンクリートの床に座って眠っていたらしく、特に足腰がすごく痛かった。
「いったいいつからここにいたんだ?」
僕を見下ろしてそう言ったのは、年老いた男の人だった。目尻や額に深いシワが刻まれているのが、僕にははっきりと見えた。
「こんな所で眠っちゃいかんぞ。早く家に帰りなさい」
その時にはもう夜空が失われていた。空の色は薄い白に変わり、もうすぐ朝が訪れようとしていたのだ。
星の見えない空の下には、もちろんチビの姿はなかった。
「ほら、立って」
ジャージ姿のお爺さんは、冷たい両手を引っ張って僕をゆっくりと立ち上がらせた。
色黒な顔には、白い歯が浮き立って見えた。残り少ない灰色の髪が、向かい風に揺れていた。
お爺さんはかなり年をとっているように見えたけれど、力はとても強かった。
「家へ帰ってゆっくり眠りなさい。ここにいたら風邪をひいてしまうぞ」
明るく大きな声が、狭い屋上に響き渡る。顔をクシャクシャにして笑うその人の姿が、溢れ出しそうな涙でぼんやりと滲んだ。

 とうとう一晩中彼と会えなかった。
チビと一緒に暮らすようになってから、1人ぼっちの夜を過ごしたのは初めてだった。
目が覚めると、寒さが肌に沁みた。普段はチビと寄り添って眠るから、体が冷える事なんかあり得なかったのに。
「坊やはこんなところで何をしていたんだ?」
何をしていたのかと聞かれても、それを説明するのは難しかった。 寝起きの頭はろくに回転せず、物事を順序立てて話す余裕などなかったのだ。
寒さで震える僕の両腕を、お爺さんが優しくさすってくれた。
同じ風に晒されているのに、彼はちっとも寒そうではなかった。 冷たい僕の腕には、彼の手の温もりがじわじわと伝わってきた。
その時僕は、ふと思った。このお爺さんは、いつからここにいたのだろう。
少なくとも、僕が目覚める前にここへきていた事はたしかだ。
この人は、チビの姿を見なかっただろうか。ほんの少しでも、彼の気配を感じたりしなかっただろうか。
その可能性はかなり低いと思ったけれど、それを確かめずにはいられなかった。
僕は微かな希望を胸に、彼にそっと問い掛けた。
「あの、チビを見ませんでしたか?」
「チビ?」
「二色の毛の、かわいい猫です。彼はここへ来ませんでしたか?」
僕は拳を強く握って、泣くのを堪えていた。でもその声は、涙声になりつつあった。

 お爺さんは、目を細めてじっと僕の顔を見つめていた。
彼は腕組みをして何かを考えた後、大きな声で返事をしてくれた。
「黒と茶色の毛をした猫なら、一度ここへ来たぞ」
その言葉は、僕に淡い期待を持たせた。彼がチビを見かけた可能性は、ほとんどゼロに近いと思っていたのに。
「それはいつ頃ですか?」
「10分ぐらい前だよ」
「猫はどこへ行きました?」
「家へ帰ると言って、階段を下りていったぞ」
「……ありがとう」
チビが来た。思った通りに、ここへ来た。
それが分かると、冷え切った体が途端に動き始めた。
僕は飛ぶように階段を駆け下り、急いでアパートへ向かったのだった。


 チビが本当に帰っているかどうかは分からない。それでも僕は、風を切って勢いよく橋を駆け抜けた。 夜明け前の橋には、車も人もまったく見当たらなかった。
その時、東の空がわずかに明るくなってきた。それから僕は、太陽に向かって走り続けた。
「あんたに猫の世話なんか、できるわけがないでしょう?」
風の音が、突然母さんの声に変わった。
それは子供の頃どうしても猫を飼いたいと哀願した時、母さんに言われた言葉だった。
実家の団地では、元々ペットを飼う事が許されていなかった。 それを知っていてわがままを言った時に、スパッと言い返されてしまったのだ。
あの時母さんが言った事は、きっと正しい。
かわいいと思う気持ちだけでは、チビと一緒に暮らす事などできやしない。
うんざりするような事も面倒な事も、全部引き受ける覚悟がなければ2人の暮らしはうまくいかない。
風に吹かれて思う事は、無神経な自分への苛立ちだった。
僕はチビを裏切り、言葉で彼を傷付けた。たとえそんなつもりはなかったとしても、それは決して許される事ではなかった。
僕が実家を出る事をほのめかした時、弟は手を叩いて喜んだ。 兄貴がいなくなれば、すぐに自分1人の部屋が持てるようになるからだ。
弟に悪気があったとは思えない。でも僕は、今でもあいつを許せずにいる。
弟は何の苦労もせずに1人の部屋を手に入れた。 僕は家を出る前も出た後も、様々な努力をしなければならなかったのに……
僕が弟を許せないように、チビも僕を許してくれないかもしれない。
でも彼が昨日の事を水に流してくれるのなら、僕も弟を許してやれそうな気がした。


 アパートの赤い屋根が見えてくると、心からほっとした。
自分の行く道が朝日に照らされた時、走るスピードをもっともっと早めた。
少しずつ近付いてくる朝の日差しが、まるで道しるべのように思えた。
その光の先には、チビがいる。何故かそんな気がして、足取りが弾む。
そして僕は、意外にも早くアパートの前へ辿り着いた。
急激に走ったせいか、少し息が苦しかった。やっと朝日に追いつくと、頭の上に太陽の温もりを感じた。
電信柱に手をついて、何度か深呼吸をする。
瞬きを繰り返してそっと前方を見つめると、階段に座って俯く人影が見えた。
その人の髪は、半分ぐらいが太陽に照らされていた。
「チビ?」
僕は喉の奥から声を絞り出して、彼の名前を読んだ。
俯く彼が、ビクッとして顔を上げる。
僕がチビに駆け寄ったのと、彼がスッと立ち上がったのは、ほとんど同時だった。