25.
僕はその朝、ろくに睡眠も取らぬまま普段通りに出勤した。
本当なら、こんな日ぐらいは仕事を休んでチビとずっと一緒にいたかった。でも今日だけは、どうしても休めないと思った。
だから僕は、後ろ髪を引かれる思いでいつも通りにアパートを出た。それでも気持ちは、ずっとチビのそばにあった。
レジを打つのは嫌だから、その日は漫画の本の整理を率先して行った。
あくびを噛み殺しながら、とにかく黙々と仕事を続ける。
斜めに傾く本を真っ直ぐに立て直す時も、乾いた布で本棚を拭く時も、耳には常にチビの声が響いていた。
アパートの階段に彼の姿を見つけた時、その体は冷え切っていた。
僕は何も言わず、すぐに2人で部屋へ戻ろうとした。
もちろん話し合いは必要だったけれど、彼の体を温める方が先だと思ったからだ。
ところがチビは、玄関より奥へはなかなか進もうとしなかった。
「どうした? 早く入って」
僕は先頭に立って玄関を上がり、彼を手招きした。
でもチビは靴を脱ごうともせず、青白い顔をしてただそこに立っていたのだ。
「ほら、早くおいで」
両手で頬を包み込むと、その冷たさにゾクッとした。日の当たらない玄関はあまりにも寒くて、2人とも肩を震わせていた。
「……入ってもいいの?」
あの時言われたその言葉が、何度も何度も耳に響く。チビにそんな事を言わせたのは、間違いなくこの僕だった。
ベッドは朝日に照らされていた。疲れきった僕たちは、布団に潜って身を寄せ合った。
部屋の中は、出て行った時のままの状態だった。汚れた食器も洗濯物も、何も変わらずそこにあった。
チビは枕に頬を埋めて、力なく僕を見つめた。冷たい体を抱き寄せると、心の中が罪悪感でいっぱいになった。
「ごめんね、トシくん」
弱々しいその声が、今も耳に付いて離れない。
謝るのはこっちの方なのに、チビは僕よりも先に "ごめんね" を口にした。
「ボク、もうここにいちゃいけないんだよね?」
チビは遠い目をしてそう続けた。
今考えるとすごく恥ずかしいけれど、僕はそれから大泣きしてしまった。
様々な思いが込み上げ、感情が高ぶり、涙が溢れ出して、あっという間に枕が濡れた。
言いたい事は山ほどあったのに、その時はしゃくり上げて泣く事しかできなかった。
チビは冷たい両手で僕を抱き締めてくれた。新しい朝の日差しよりも、彼の優しさの方がずっと温かかった。
「何もできなくてごめんね。役立たずで、本当にごめんね」
そんな言葉が繰り返されると、ますます感情がかき乱された。
チビは自分の存在が、僕に負担をかけていると思っている。
それが分かった時は、すぐに否定したかった。
ちゃんと彼と話したい。自分の気持ちを、しっかり伝えたい。
その思いはすごく強かったのに、あの時はとても話せる状態ではなかった。
「違うんだ……昨日は、昨日は仕事で嫌な事があって……」
すぐに言葉が続かなくなると、チビの指が頬の涙を拭ってくれた。彼の肌が少しずつ温まっていくのが、僕には漠然と分かっていた。
「トシくんの涙、温かい」
指で拭いきれない涙は、チビの柔らかな頬が拭き取ってくれた。
頬を寄せて、唇を重ね合い、朝日を背中に浴びてキスをする。
温かい舌に性欲をかき立てられた時、僕はやっと思い出した。
僕たち2人は、言葉で話せない時から一緒にいた。それでもお互いを思いやって、今まで暮らしてきたのだった。
チビの体が胸に圧し掛かると、呼吸がすごく苦しくなった。なのに彼は、すぐに唇を解放してはくれなかった。
乱暴にシャツのボタンを引きちぎられ、乳首を指で弾かれる。
その時、腰骨に何か硬いものが触れた。
重い体を一旦退けようとしても、全然うまくいかなかった。そしてその時に、チビの体の成長をはっきりと感じた。
こうして触れ合うと、彼の事がよく分かった。チビがドキドキしている事も、興奮している事も、僕には全部分かった。
混じり合った唾液が、唇の端から溢れ出す。その時僕は、震える手でチビのズボンを引きずり下ろそうとしていた。
カーテンも引かずに、朝から激しく愛し合う。
チビは僕の上になって腰を振った。するとベッドが大きく唸りを上げた。
体は大きくなっているくせに、彼の穴は相変わらず小さかった。狭い壁が僕を擦り付け、痺れるような快感が全身に広がった。
「あっ……!」
頭をのけぞらせ、目を閉じて強い快感を受け止める。
僕は無意識に腰を回し、両手でチビのものを強く擦った。
彼の肌は、まだ少し冷たかった。でも手に触れるそれは、火傷しそうなほど熱くなっていた。
彼と1つになると、嫌な事を全部忘れられそうな気がした。仕事で躓いた事も、チビを傷つけてしまった事も。
昨日もこうして、すぐに愛し合えばよかったのだ。
そうすれば、きっと元気になれたのに。彼と抱き合えば、心も体も満たされたのに。
「トシくん、気持ちいい……」
チビの声は大人びていた。
目を閉じていても、彼の興奮が伝わってくる。
気付くと右手がしっとりと濡れ、息遣いが荒くなっているのが分かった。
カーテンは開けっぱなしだったけれど、その行為を人に見られても一向に構わないと思った。
1人ぼっちの夜は、すごく心細かった。
お前を傷付けてしまった事、本当に後悔してるよ。
チビが好きだ。誰よりも何よりも、お前の事が大好きだ。
僕のこの思い、分かってくれるよね?
「ん……あぁ……!」
チビはすぐにいってしまった。きっとそれが、彼の返事だった。
白い液体が、首のあたりにまで飛び散る。役目を終えた両手も、それを浴びて急激に熱くなる。
そして僕も、ほとんど同時に果ててしまった。彼の中で射精をすると、気持ちがよすぎて意識が遠くなった。
セックスの後は、たっぷり幸せの余韻を味わった。ベッドの上で絡み合って、何度も何度もキスを繰り返すのだ。
お互いに髪が乱れ、肌はかなり汗ばんでいた。
たった一度のセックスで、離れていた2人の距離が埋まる。僕たちはお互いに許しを請い、お互いに許された。
きつく抱き締め合うと、彼の存在の大きさがよく分かった。
柔らかな肌に触れているだけで、すごく安心する事ができたのだ。
本当はその感触をずっと味わっていたかった。でも僕は、出勤の時間が迫っている事をちゃんと自覚していた。
僕はこの時、もうすっかり冷静さを取り戻していたのだった。
チビの背中をトントン、と叩くと、一瞬にしてキスの雨が止んだ。
朝の日差しは、少しずつ温かさと輝きを増していた。
「僕、そろそろ仕事へ行かなくちゃ」
甘いムードをぶち壊す覚悟で、現実的な言葉を口にする。するとその時、チビの顔色が明らかに曇った。
「仕事になんか、行かないで」
「……」
「仕事に行ったら、また嫌な事があるかもしれないよ。だから、もう行かないで」
彼はすごく近いところで僕を見つめ、哀願するような口調でそう言った。
チビの息が鼻に降りかかると、心がグラッと揺らいだ。仕事なんか放り出して、一生彼と抱き合っていたいと思ったのだ。
でもそれ以上に、もっと強くなりたいと思った。
昨日はお金の事で、店長にあらぬ疑いを持たれてしまった。
その翌日に仕事を休んだりしたら、僕への疑惑はもっと増大する。
ダメなりに仕事をがんばってきた僕にだって、意地というものがある。
それを貫き通すためには、今日も何食わぬ顔をして出勤する必要があった。
僕は悪い事なんかしていないのだから、とにかく毅然としていたいと思った。
僕にはチビに対する責任がある。彼との暮らしを守るためには、しっかりと稼がなくてはならない。
世の中には、もっと儲かる仕事が他にいくらでもある。
ただバイトを辞めて別な仕事を始めるにしても、今はその時期ではないと思ったのだ。
「チビ、よく聞いて。仕事に行かないと、お金が貰えないんだ。
そうしたらご飯も食べられなくなるし、この部屋にもいられなくなる。だから、仕事は休めない」
「……」
「でもがんばって働けばおいしい物が食べられるし、また旅行にも行ける。チビには難しいかもしれないけど、そういう事なんだよ」
チビは少し間を置いた後、枕に顔を埋めて黙ってしまった。
彼がその言葉を理解してくれたかどうかは分からない。
それでも僕は、彼との暮らしを守るために立ち上がったのだった。