26.
その日の仕事が無事に終わると、僕はすごくほっとした。
「お疲れ様です」
帰りに受付カウンターの横を通った時、バイトの仲間たちが笑顔でそう言ってくれた。
彼らは年も近くて、皆僕には好意的だった。店長の姿はそこにはなかったけれど、それが僕を更にほっとさせていた。
チビが言ったように、今日もまた悪い事が起きそうで、仕事中はずっと気を張っていた。
でも外へ出て青い空を見上げると、やっと気持ちが楽になった。
緊張から解き放たれて、急に肩の力が抜けたのだ。
ところが、その後すぐに目の前が真っ暗になった。それは温かい手に両目を塞がれてしまったからだった。
「チビ?」
僕が真っ暗闇を見つめたのはほんの一瞬で、またすぐ青い空が目に映った。
瞼の上に残る温もりは、チビの手の感触に間違いなかった。
後ろを振り返ると、そこにはやっぱり彼がいた。チビは頬にエクボを浮かべて笑い、大きな目を真っ直ぐ僕に向けていた。
「迎えに来てくれたのか?」
「うん。早く会いたかったから」
ポロシャツの襟を立てながら、彼が優しくそう言った。
今すぐ彼を抱き締めたい。
本当はそう思ったけれど、そこでは手を握るのが精一杯だった。道を歩く人たちが、2人のすぐそばにいたからだ。
「これから遊びに行こうか?」
今日は、自分からチビを遊びに誘った。
昨日の僕は、彼の申し出を素っ気なく断ってしまった。でも僕は、もう一度そこからやり直したかったのだ。
だけど今度は、僕がチビにフラれる番だった。
「今日は帰ろう。トシくん、疲れてるよね? 早く帰って、ゆっくり休もうよ」
チビはそう言って、僕の手をぎゅっと握り返した。遊びの誘いは断られてしまっても、その思いやりがすごく心に沁みた。
彼をわずかに見上げて、そっと頷く。
午後の日差しが彼の目を輝かせ、僕はその光に魅せられた。
「お前は、いつの間にか僕より大きくなっちゃったんだな」
「……うん」
「もうチビって呼ぶのは、なんだかおかしいね」
何気なくそう言った時、彼の目の光が失われた。
チビが不意に俯くと、僕たちに近付く足音が突然耳に鳴り響いた。
「森本、悪いがちょっと来てくれ。昨日の件で話があるんだ」
僕を追ってきたのは、険しい顔つきの店長だった。チビの目の光を奪い取ったかのように、彼のメガネがキラッと輝いた。
仕事が終わってほっとしていたところだったのに、僕は急にドキドキしてきた。
チビが横目で店長を見つめた時、至近距離で2人の目が合った。
彼の手の温もりが僕から離れ、大きなトラックが道を走り抜けていく。
その後チビは、突然思ってもみない行動に出た。
「あんたがトシくんを泣かせたんだな?」
トラックが走り去ると、風が吹いて木の葉の揺れる音がした。
チビは店長の前に立ちはだかり、止める間もなく胸ぐらを掴んだのだった。
「どうして意地悪するんだよ! トシくんはいつも一生懸命なのに、どうしてだよ!」
彼が大声を出すと、道行く人たちが僕らに注目した。
この時僕は、あまりに驚いてすぐには動き出せなかった。
チビが怒るのを見たのは、もちろん初めてだった。
いつも温厚な彼が、目をつり上げて店長を睨みつける。僕にはそれが、とても現実とは思えなかったのだ。
チビが胸ぐらを掴むと、ワイシャツのボタンが2つ飛び散った。
店長の体がフワッと浮き上がり、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
メガネが鳥のように宙を舞い、レンズの割れる音がガシャン、と響く。
チビはそのフレームを踏み付け、俊敏な動きで彼に飛びかかった。
鋭い爪が店長の頬を引っかく。すると僕の目に、真っ赤な血の色が映し出された。
「チビ……ダメだよ!」
その時になって、僕はやっと動き始めた。
馬乗りになろうとしている彼を、とにかく無我夢中で止めようと思った。
地面に膝を付いて、チビの体を押さえつける。それでも彼は、腕を伸ばして店長に掴みかかろうとした。
今となっては、僕よりもチビの力の方が勝っていた。僕の手は見事に振り切られ、その反動でしりもちをついてしまった。
「うっ……」
店長が小さく呻いて顔をしかめる。
地面にうずくまる彼をチビがいよいよ押し倒そうとした時、誰かが後ろで大きく叫んだ。
「警察を呼べ!」
その後は、もう本当に必死だった。
警察に捕まるのがどういう事か、チビは恐らく分かっていない。
でもその時は、そんな事を説明しているヒマなどなかった。
「チビ、やばいよ。逃げるぞ!」
自分のどこにあんな力があったのか、僕にもよく分からない。
とにかく警察という声を聞いた瞬間即座に立ち上がり、強引にチビを引っ張ってそこから逃げた。
土埃の向こうには、ぐったりと横たわる店長の姿があった。
その頬には真っ赤な血が浮かび、ワイシャツの胸ははだけ、ズボンの裾が大きくめくれていた。
気付くと現場にはたくさんの野次馬が集まっていた。
僕らを囲む人たちは、携帯電話を片手に写真を撮ったり、ヒソヒソと内緒話をしたりしていた。
ギャラリーをかき分けて走り出すと、僕は前だけを見つめた。
日差しの向こうからやってくる自転車を避け、石ころにつまづき、小さな路地へ入って更に走り続ける。
息が切れても、足がもつれても、僕は絶対にチビの腕を離さなかった。
「トシくん、どこへ行くの?」
「いいから逃げるんだ。ウロウロしてたら、捕まって檻に入れられちゃうぞ!」
「えっ?」
「いいから走れ! 話はその後だ」
チビはとても頼もしかった。
一瞬でその言葉を呑み込むと、彼は僕の手を握ってすぐに前を走り始めたのだった。
チビは足が早いので、ついていくのはすごく大変だった。僕は引きずられるように走り、何度も転倒しかけた。
景色を見る余裕も青空を見上げる余裕も失われたまま、2人は手を取り合ってひたすら走り続けた。
近頃の僕たちは、いつもこうして急いでいた。
僕たち2人は、いったい何から逃げていたのだろう。
僕たちの手が離れたのは、白いマンションの裏手に辿り着いた時だった。
いったいどこをどう走ったのか全然分からなかったけれど、とにかく気付くとそこにいた。
チビは体を2〜3回左右に揺らした後、アスファルトの上に突然崩れ落ちてしまった。
「チビ?」
マンションの裏手は駐車場になっていて、そこにはたくさんの車が2列に並んで停まっていた。
チビは2台の車の間の狭いスペースにへたり込んでいた。
彼の首筋には玉のような汗が浮かび、その顔色は真っ青だった。
「チビ、大丈夫か?」
僕は重い足取りで彼に駆け寄った。
地面に手を付いて四つん這いになっている彼が、何故だかすごく小さく見えた。
ゆっくり背中をさすってやると、汗を吸ったポロシャツの感触が掌に直に伝わった。
彼の目は虚ろだった。汗の雫が、ポタポタとアスファルトの上に降り注がれた。
「平気。ひどい勢いで走ったから、疲れちゃっただけだよ……」
「立てる?」
「うん」
チビは頷いたけれど、すぐには立ち上がれなかった。
僕は彼の肩を支え、2人はヨロヨロと歩きながらなんとかアパートへ帰ったのだった。