28.

 「仕事に行ってくるね」
そう言って部屋を出た時、チビは笑顔で見送ってくれた。
その時僕は、もう彼に心配をかけたくないと思った。
仕事をクビになるのは分かっていたけれど、今すぐそれをチビに打ち明ける事はできなかったのだ。

 いつもの朝に、いつもの道を歩く。朝日の温もりは、僕を少しだけ勇気付けた。
耳に響くのは自分の足音だけだった。空気はとても乾いていて、一歩歩くたびに土埃が舞い上がった。
やがて右手の方に、このあたりで1番大きな家が見えてきた。白い塀に囲まれたその家は、小さなアパートの多い道沿いで異彩を放っていた。
クリーム色の壁をした、大きくて真四角な家。しばらくすると、そこからメガネをかけた初老の男が出てきた。
彼は白髪頭ですごく恰幅がいい。その人は毎朝同じ時間に、ダークなスーツを身に着けてゆっくりと外へ出てくるのだった。
それは普段と変わらぬ光景だった。あと何日かして夏休みが終わると、同じ時間に同じ道を歩く学生の姿も蘇るだろう。
でも僕はもう彼らに会う事はないのかもしれない。
仕事が変わると生活のリズムも変化する。そうすると、出勤時の光景もきっとガラリと変わってしまうのだ。


 国道を走る車の姿が見えると、すごくドキドキしてきた。
漫画喫茶はもう目の前だ。僕はこれからそこへ行き、あの偏屈な店長に頭を下げなければならない。
彼はその時、どんな言葉を僕に浴びせるだろう。
メガネとワイシャツを弁償しろと言われるだろうか。それとも、走って逃げた事を責められるだろうか。
よくない想像ばかりが頭に浮かんで、気持ちがどんどん暗くなっていった。そしてそこには、自然と下を向く自分がいた。
でも大丈夫。きっと大丈夫。
店長にどんなひどい事を言われても、チビが必ず慰めてくれる。
だから何も心配する事はない。僕にはチビがついている。今だって、僕の心は彼と共にある。

 僕は立ち止まり、店の前で大きく深呼吸をした。
それから中へ入ろうと思っていたら、突然ガラス戸の向こうに店長の姿が見えた。
その時は、腰が引けて足が前へ進まなくなった。
彼の頬には絆創膏が貼られていた。そしてメガネは、新しいものに変わっていた。 でも険しい顔つきだけは、昨日とまったく変わっていなかった。
彼が外へ出てくると、僕はきつく目を閉じた。その時はもう、殴られる覚悟も怒鳴られる覚悟もできていた。
やがて店長が目の前に立つのが分かった。僕は両手の拳をしっかりと握り、奥歯を強く噛み締めた。
「森本、済まなかった」
「え?」
いきなりそう言われると、拍子抜けして思わず目を見開いた。
店長は、たしかに目の前にいた。ところが彼は、僕に深々と頭を下げていたのだった。

 僕は彼が何故謝るのか、まったく見当が付かなかった。でもその疑問は、すぐに解決する事となった。
「レジの金が合わなかったのは俺のせいだ。クソ忙しい時に業者が集金にきて、レジから金を出したのを忘れてたんだよ。 昨日はその事を、お前に謝ろうとしたんだが……」
最初はすごく驚いたけれど、彼の言う事はよく分かった。
店で出す飲食物などは、一気に仕入れて後から支払いをする。
そのお金は大抵事務室の金庫から出すのだが、忙しい時には稀にレジのお金を抜いて支払う時があるのだった。
「言い訳するのは見苦しいかもしれないが、俺はお前が金を盗んだとは思っていなかった。 ドジなお前の事だから、レジを大幅に打ち間違えたのかと思ったんだ。だけど、もっとよく考えてみるべきだったよ」
肩を落としてうなだれる店長を見ると、なんだかすごく切なくなった。
今日は彼も、重苦しい気持ちでここへきたに違いない。僕に何を言われても、全部受け止める覚悟で出てきたに違いないのだ。
だけど店長を責める気になんかなれなかった。
僕がドジなのは紛れもない事実だ。なのに彼はそんな僕を雇い入れ、クビにもせずずっと店に置いてくれた。
それは僕にとって、十分感謝すべき事だったのだ。
「もういいですよ。店長の話は、よく分かりましたから」
それは素直な気持ちだった。
今回の事でチビとの絆はずっと深くなったし、それだけでも僕の得たものは大きかったのだから。

 そこへ考えが行き当たった時、僕はやっと大事な事を思い出した。
「店長、頬の傷は大丈夫ですか?」
そう尋ねると、彼は薄笑いを浮かべて頬の絆創膏に触れた。
事の成り行きはどうあれ、その傷を負わせた事は謝らなければならない。僕はそう思ったので、店長にしっかりと頭を下げた。
「昨日はすみませんでした。でも彼に悪気はなかったんです。だから、許してください」
ゆっくりと腰を折ると、地面に転がる白いものが見えた。 僕はそれがワイシャツのボタンだと分かったので、サッとしゃがんで拾い上げた。
「これ、店長のボタンじゃないですか?」
それを渡すと、彼はボタンをズボンのポケットにしまい入れた。
そしてその時、昨日の出来事がすべて水に流されたのだった。


 「じゃあ僕、フロアの掃除を始めますね」
僕は気持ちを切り替えて、すぐに仕事へ向かおうとした。ところが店長は、動き始めた僕を制止した。
「今日は休め。俺の権限で有給扱いにしておくよ」
「え? でも……」
「いいから、罪滅ぼしをさせてくれ。今日は天気も良さそうだし、どこかへ遊びに行ってこい」
僕たち2人は、揃って空を見上げた。頭上に輝く太陽は、とてもまぶしかった。
「昨日の猫は、お前が飼ってるのか? あいつはどうやら俺の事が嫌いらしいな」
店長がしみじみとそう言って、フッと小さく笑った。
するとその時、急に太陽のまぶしさが遠のいていくを感じた。 彼が言ったその言葉は、僕の胸を大きく切り裂こうとしていたのだった。
「店長は……彼が猫だと分かったんですか?」
僕は震える声で店長を問い詰めた。すると彼は、苦笑いをした。
チビが猫だと分かる人間は、この世にたった1人だけだと思っていた。 そしてそれが自分である事を、今まで1度も疑った事はなかった。
だけどその自信は、もろくも崩れ去ろうとしていた。
「俺はバカかもしれないが、いくらなんでも猫ぐらい分かるぞ」
「……店長が見たのは、どんな猫でした?」
「黒と茶色の、二色の毛の猫だよ。あれはお前が飼ってる猫じゃなかったのか?」
太陽のまぶしさが完全に僕を離れ、突然目の前が真っ暗になった。
僕はその言葉に心をかき乱され、一瞬にして我を失った。