3.

 僕は近所の漫画喫茶でバイトをしていた。勤務時間は午前7時から午後3時までだ。
朝は6時前には起きて洗顔と朝食を済ませ、6時45分にはアパートを出る。そのパターンはこの5ヶ月間ずっと続いていた。
子猫と迎える最初の朝は晴天だった。窓を覆うカーテンを開けた時、目に突き刺さる朝の日差しがとても痛かった。
彼は人並みの事はなんでもできるようだった。
ちゃんと歯磨きもできたし、1人でトイレにも行けた。それに、多少ぎこちないけれど箸も使う事ができた。
猫は魚を好むのかと思いきや、パンでも野菜でもなんでも食べられるようだった。

 2人で朝食を食べた後、僕は子猫にいろいろと説明をした。
8時間も彼を1人きりにするのだから、食料のありかや退屈しのぎの方法を教えるべきだと思ったのだ。
「ミルクはここに入ってるから、喉が渇いたら好きなだけ飲んでいいよ。 ジュースやミネラルウォーターもあるから、足りなくなったらそれを飲んで。卵や納豆もあるけど、食べられるなら食べていいよ」
まずは冷蔵庫を開けて一通り中身の説明をした。子猫はそこにある物をしげしげと眺め、僕の説明に聞き入っているようだった。
その後は食料庫の方へ移動した。それは背の低い棚で、その上にはポットと小さな炊飯器が並べて置いてあった。
「丸いのがメロンパンで、四角いのが食パンだよ。スパゲティーのゆで方は後で教えてあげる。 カップラーメンを食べる時はポットのお湯を注いで3分待つんだよ。お湯を被ると火傷をするから、十分気をつけてね」
子猫は棚の中を覗いて何度も頷き、最後はすべてを理解したかのようにくっきりしたエクボをたくわえてにっこり微笑んだ。

 その後2つのリモコンについて説明したのだけれど、子猫はリモコンをすごく気に入って用もないのにポチポチとボタンを押していた。 そしてそのたびにテレビ画面が変わったりエアコンの風向きが変わるのを楽しんでいるようだった。
どうやら子猫にとってリモコンはおもちゃに近い物のようだった。彼は長い間テーブルの横に立ってリモコンで遊んでいた。
一応彼には僕の洋服を着せていたけれど、それはまったくサイズが合っていなかった。 ティーシャツは半袖のはずが七分丈になっていたし、ジーンズの裾はあまりにも長すぎて引きずっていた。
彼はひどく小柄で、僕より30センチも背が低かったのだ。
猫を飼うのも楽じゃないと思った。
ミルクや食料は多めに調達しなくちゃいけないし、洋服も買ってやらなければならない。 彼は裸を好むかもしれないが、それでは外へ連れ出す事ができないのだから。


 ぼんやりその姿を眺めていると、すぐに出かける時間がやってきた。
「行ってくるね」と彼に声を掛けた後、僕は急いで玄関へ走った。
バイト先への遅刻は厳禁だった。口うるさい店長に説教されないためには、勤務開始時間の5分前には出勤するのが鉄則だったのだ。
狭い玄関には僕の靴がきちんと並べて置いてあった。それは昨日子猫がそうしておいてくれたからだった。
僕は素早く靴をはき、すぐにドアノブを掴んで外へ飛び出そうとした。
しかしその時、何か強い力によって体が後ろへグッと引っ張られた。そのため真っ直ぐ前に伸ばした手は銀色のドアノブへは届かなかった。
背中に温もりを感じた時、子猫が僕に抱きついたのだという事がようやく分かった。
彼の小さな両手は僕のお腹に回された。何も言えない子猫は間違いなく「行かないで」と心の中で叫んでいた。
それが分かった時、胸に重苦しい痛みが走った。
本当は彼に淋しい思いをさせたくはない。本当は彼を1人ぼっちになんかしたくない。
けれど、仕事をサボる事なんかできるはずはなかった。
「なるべく早く帰ってくるよ」
僕は背中に温もりを感じながら気休めとしか思えない言葉を口走った。
後ろ髪を引かれる思いとは、きっとこの事を言うんだ……
玄関の白いドアを見つめて、僕は不意にそう思った。