4.

 バイトが終わった後、僕は少し遠回りして帰った。
大型スーパーへ立ち寄って、夕食の材料と子猫の洋服を調達してきたのだ。
重い荷物を抱えて歩くと、体中から汗が噴き出してティーシャツが肌に貼り付いた。
照りつける太陽は、僕の体力を徐々に奪い取っていった。

 アパートの前へ辿り着くと、錆付いた階段に腰を下ろして少しの間休憩を取る事にした。
急な階段を上りきれば僕の部屋はもう目の前だった。でも子猫のいる部屋へ帰る前に、どうしてもインターバルが欲しかったのだ。
僕はどうやら仕事向きの人間ではないらしい。 今のバイトを始めて5ヶ月も経つのに、未だに失敗ばかりを繰り返していた。
今日はグラスを3つも割ってしまって、店長に延々と説教をされた。 するとどうしても気持ちが落ち込んで、顔の表情が暗くなってしまう。
僕は子猫にはそんな顔を見せたくなかった。だから部屋へ帰る前に無理やり笑って笑顔を作る練習をしたのだ。
階段に腰掛けると、ちょうど目の前に電信柱が立っていた。 そこにはある劇場の宣伝チラシが貼ってあり、その紙には有名なコメディアンの顔が印刷されていた。
僕はその人の笑顔をお手本にし、大口を開けてわざとらしく微笑んでみた。
するとその時、セーラー服を着た女子高生がアパートの前を通りかかった。 彼女は1人で笑っている僕を危ない人だと思ったようで、そこから逃げるように走り去ってしまった。


 ドアの鍵を開けて玄関へ入ると、子猫が僕を出迎えてくれた。
彼は僕が着せた洋服をそのまま身に着けていた。そして2色の髪にはしっかりと寝癖がついていた。
子猫は頬にエクボをたくわえてにっこりと微笑んでいた。
その笑顔を目の当たりにすると、僕も自然と笑顔になれた。
彼は僕の帰りを待っていてくれたのだ。僕が帰ると、すごく嬉しそうに笑ってくれたのだ。

 部屋の中はとても涼しかった。 外の日差しはほどよく床を照らし、エアコンは快適な空気を作り出していた。
「涼しい。生き返るよ」
そう言って買い物袋を投げ出した時、子猫がテーブルの手前に座布団を敷いた。そしてそこへ座れと僕に目で合図をした。
「ありがとう、チビ」
僕が座布団に腰掛けると、子猫は満足そうに頷いた。
彼は彼なりに僕をもてなしてくれたのだ。しかし子猫のもてなしはそれだけでは終わらなかった。
彼は冷蔵庫の中から紙パックに入ったミルクと冷えたグラスを取り出し、それを胸に抱えてやってきた。
やがてテーブルの上に青いグラスがトン、と置かれ、そこに並々と白いミルクが注がれた。
その時僕は気付いたのだ。彼は昨日の僕の真似をしていたのだった。
その仕事が終わると、子猫は僕の横で体育座りをした。
彼は大好物のミルクにまったく手を伸ばそうとはしなかった。彼は間違いなく僕のためにミルクを用意してくれたのだった。
「お前はいい子だね。ありがとう」
そう言って頭を撫でてやると、子猫は頬を染めてはにかむように笑った。

 やがて僕はグラスに手を伸ばしてミルクを飲もうとした。
でもその瞬間に突然嫌な思い出が蘇り、思わずその手を止めてしまった。

 黒いタイルの床に3つのグラスが叩きつけられ、割れたガラスが粉々に散った。
 グラスに入っていた液体は床をしっとりと濡らし、ついでに僕の靴も濡らしてしまった。
 グラスの割れる音があたりに響き渡り、慌てて店長が駆け寄ってくる。
 どうしよう……
 僕は心の中でそうつぶやき、銀色のトレイを片手に呆然と立ち尽くしていた。

「もう何回目だと思ってるんだ? 割ったグラスは弁償してもらうぞ」
店長はメガネの位置を直しながら、呆れた様子でそう言った。
あのグラスはいったいいくらするんだろう。もしかして、今月の給料からその代金を差し引かれてしまうんだろうか。
そんな事を考え始めると、どうしても気持ちが沈みがちになった。
どうしてあんな事をしちゃったんだろう。 ちゃんと気を付けていたはずなのに、どうしてあんな失敗をしちゃったんだろう。
ミルクの入ったグラスを見つめると、後悔の念が頭を渦巻いた。そして瞼の奥から熱いものが込み上げてきた。

 子猫の手がそっと僕の髪に触れたのは、ちょうどその時の事だった。
彼の小さな手は子供を慰めるかのように何度も頭を撫でてくれた。
子猫は笑顔を失っていた。不安げな目をして、ただ心配そうに僕の顔を見つめていた。
「お前、慰めてくれてるのか?」
驚いてそう言うと、子猫の目が煌いた。彼がわずかに目を潤ませた時、すごく胸が苦しくなった。
僕が落ち込んでいる事を、彼はちゃんと理解してくれた。僕が無理している事を、彼はすぐに分かってくれた。
子猫は思ったよりもずっと敏感だった。僕が暗い顔をしていると、きっと彼も悲しくなってしまうのだ。
「お前は、優しいんだな……」
僕は彼を抱き寄せてゆっくりと背中をさすってやった。子猫は小刻みに体を震わせていた。
僕たち2人はこうして少しずつ絆を深めていったのだった。