31.

 今日はいつもより少し遅く二宮のマンションを出た。
僕はアパートへ戻る前に、まずはコンビニへ向かった。
財布の中にはあまりお金が入っていない。それでも2人分の夕食は、必ず用意しなければならなかった。
仕方がないから、カップラーメンでも買って帰ろうか……
そう思いながらコンビニのそばへきた時、僕の足は一旦歩道の上で止まった。

 コンビニの前には、チビの姿があった。
その時彼には連れがいた。5〜6歳ぐらいの男の子と2人で、駐車場の隅にチョコンと座っていたのだ。
彼らが口にくわえているのは、先の広がったストローだった。
晴れた空に向かって、いくつものシャボン玉が飛んでいく。2人が作り出すそれを、僕はしばらく目で追っていた。
シャボン玉の表面は、日差しを浴びてキラキラと光っていた。それはまるで、昼間に見る星のようだった。
街路樹の枝にぶつかると、シャボン玉はあっけなく割れてしまう。 電線に触れた時にも、やっぱりそれははじけ飛んでしまう。 障害物をうまく避けたものだけが、風に乗ってゆっくりと昇天していくのだ。

 シャボン玉の道具は、小さな男の子のものに違いなかった。
チビがどうやってその子と知り合ったのかは分からない。でもとにかく、2人はとても楽しそうだった。
コンビニの駐車場は車の出入りが多く、彼らの姿はその隙間に見え隠れしていた。 時々死角に入っても、宙に舞うシャボン玉がチビたちの存在をたしかに僕に伝えていた。
2人はまるで兄弟のように見えた。
男の子は茶色っぽい髪をしていて、それはチビと同じく肩より長い。
2人の動きがよく似ているのは、チビがその子を真似ているからだ。 彼はシャボン玉遊びが初めてだから、見よう見真似でやっているのだろう。
白いティーシャツにショートパンツという服装も、遠目にはお揃いのものに見える。
弟と2人で地べたに座り、遊びに付き合っているお兄さん。傍から見ると、チビはそんなふうに見えなくもない。
「あーちゃん、お家へ帰るわよ」
車の出入りが途切れた時、女の人の声が大きくあたりに響いた。
彼女はコンビニで買い物を済ませた後、店から出てきて2人に近付いた。
涼しげな白いスカートと、茶色の長い髪が風になびく。 "あーちゃん" と呼ばれた男の子は、ママに駆け寄ってにっこりと微笑んだ。


 僕は彼を自分と重ねて見ていた。
初めて猫を飼いたいと思ったのが、ちょうどそのぐらいの年齢だった。
野良猫を見つけると必ず一緒に遊んで、ダメと分かっていながら家に抱いて帰った。
でも母さんは、すぐにその猫を捨てたりはしない。夜僕が眠った後に、そっと外へ放すのだ。 だから朝になると、家中探してももうどこにも猫の姿はなかった。
小学校へ上がるまでは、何度かそういう事を繰り返した記憶がある。 でももう少し大きくなると、捨てられるのが分かっているから猫を拾ったりはしなくなった。
そして僕は、何度も母さんに猫を飼いたいとお願いした。だけど彼女は、正論を言っていつもそれを退けたのだ。


 「バイバイ、お兄ちゃん」
チビを振り返って、男の子が小さく手を振る。若い親子が歩き出すと、チビは2人を目で追いかけた。
男の子には、チビが猫だと分からなかったようだ。
ママが買い物をしている間、一緒に遊んでくれたお兄ちゃん。あの子にとってチビは、きっとそういう人だった。
チビは明らかに人間の姿をしている。僕さえ黙っていれば、彼が猫だと気付く人はいない。
今までは、漠然とそう思っていた。
僕は多分、チビを猫だと認めたくなかったのだ。だから一度も彼にその事を確かめたりはしなかった。
彼は僕と同じ人間で、僕と同じように笑い、僕と同じ時を共有する。
今まではずっとそう思うようにしてきた。 ところが店長と二宮は、そうじゃない事実をはっきりと僕に突きつけたのだ。

 若い親子はどんどん遠ざかっていき、やがて2人の姿は見えなくなった。
チビは少し俯いて、淋しげな表情を見せた。その時突然、耳の奥に母さんの声が蘇ってきた。
「あんたに猫の世話なんか、できるわけがないでしょう?」
母さんがその後何と言ったか。僕がそれを思い出したのは、もう少し後になってからの事だった。