33.
時々本を整理して、時々レジを打って、時々食器洗いをする。今日もそんな事を繰り返して、仕事の時間は終わった。
僕は最近、急いで帰ろうという意識が薄れていた。
すぐにアパートへ帰っても、どうせチビは眠っている。それが分かっているから、帰る楽しみは半減していたのだった。
のんびりした足取りで外へ出ると、頬に弱い風を感じた。
9月の風は温かかったけれど、真夏のそれとは少し違っているようだった。
そのうちこのあたりにも、たくさんの赤とんぼが飛び交うのだろうか。
不意にそう思った時、すごく二宮に会いたくなった。
「お疲れ様!」
だからこそ、その声を聞いた時はかなり驚いた。
二宮はどこからともなく突然現れ、明るい笑顔を僕に向けたのだった。
「どうしたの?」
驚きと喜びの混じった声が、喉の奥から飛び出した。今まで彼とは、休みの日にしか会った事がなかったのに……
「近くまできたから寄ってみたんだ。もしよかったら、これから遊びに行こうよ」
僕はすぐに頷いた。
彼が長袖のシャツを着ているのに気付いた時、もう秋は目の前なのだと実感した。
それから僕たちは、すぐに駅へ向かった。
彼と2人で電車に乗るのは新鮮だった。考えてみると、二宮と外で遊ぶのはこれが初めてだったのだ。
この時間の車内には、学校帰りの高校生がたくさんいた。座席を埋めるほとんどの人が、制服姿の少年たちだ。
僕たちがドアのそばに立った時、電車がゆっくりと動き始めた。
賑やかな空間に身を置くと、何故だか心が安らいだ。
あちこちから聞こえる笑い声が、僕を少し明るい気分にさせてくれたのかもしれない。
「仕事、忙しかった?」
「いや。夏休みが終わってからはヒマだよ」
「店長に怒られたりしてない?」
「大丈夫。あの人には貸しがあるから」
「え? 何それ?」
「ううん。なんでもない」
流れる景色を見つめながら、彼とたわいのない話をする。でもきっと、こういう何でもない時間がすごく大切なのだ。
「もう日差しが秋だよな」
「そうだね」
秋の気配を感じているのは、どうやら僕だけではなさそうだった。
強い日差しが、時々高い建物に遮られる。太陽の温かさは、僕たちのそばを行ったり来たりした。
映画館やボーリング場の看板を見つけると、更に気持ちが明るくなる。
僕はもっと外へ出るべきだったのかもしれない。
アパートと、バイト先と、二宮の部屋。
それはとても大切な場所だったけれど、そこを行き来するだけの毎日ではちょっと淋しすぎる。
「この前は、ごめん」
いきなりそう言われた時は、彼が何を謝っているのか分からなかった。
白い手が、赤茶色の髪をかき上げる。日差しが眉の上の傷を照らすと、二宮は低い声で続けた。
「急に不機嫌になって、嫌な奴だと思っただろ?」
それを聞くと、ようやく謝罪の意味を理解した。
前に会った時、彼は僕が帰るまでずっと不機嫌だった。例の猫の話をした時から、終始様子がおかしかったのだ。
「謝らなくていいよ」
僕はそう言うのが精一杯だった。
チビの事にしても、彼の体験にしても、とにかく分からない事だらけだった。
あの時は僕も混乱していたし、きっと彼も同じだったのだ。
電車が次の駅で止まると、反対側のドアが開いた。そこは別な路線への乗換駅なので、降りる人は大勢いた。
少年たちの声が遠ざかり、車内が少し静かになる。
僕は近くに空いている席を見つけたので、二宮を促してそこへ座ろうと思った。
ところが彼は、肩を叩かれてもドアのそばを離れようとしなかった。
「トシくんは、人間の姿をした猫によく会うの?」
そうこうしているうちに、また電車が動き始めた。途端に彼がそう言って、僕は少し動揺した。
「うん。時々会うよ……」
僕は嘘とも本当とも言えない返事をした。そんな自分が、とてもずるい人間に思えた。
二宮は僕の顔を一切見ず、ただガラス越しの日差しを浴びていた。
その目は薄っすらと濡れているようだった。彼はきっと、太陽に涙を渇かしてほしかったのだ。
「トシくん、淋しいんだね」
その言葉にドキドキして、何も言えなくなる。
それは図星のような気もしたし、そうじゃないような気もした。
「人間の姿をした猫は、淋しい人の前に現れる妖精みたいなものだ。俺はずっと、そう思ってた」
二宮は俯き、小さく鼻をすすった。
それは嘘とも本当とも言えない、彼なりの真実だった。
「でも……」
彼は言葉を詰まらせた。細い指が、零れ落ちそうな涙をそっと拭う。
その様子を見て、僕はますます動揺した。
彼がどうして泣いているのか、ちゃんと聞きたかった。ところがそうする前に、昔の記憶が蘇ってきた。
赤とんぼが飛び交う空の下。校舎の裏手で、彼はじっとうずくまっていた。
二宮はあの時も、こうして泣いていたのかもしれない。誰にも知られずに、たった1人で……
そうだ、ハンカチを貸してあげよう。あの時と同じように。
僕は咄嗟にそう思ったけれど、ポケットの中には財布と鍵以外何も入っていなかった。