34.
夜空はとても綺麗だった。星がたくさん浮かんでいて、雲はほとんど見当たらない。
このまま別れたら、彼とはきっと終わってしまう……
歩道の上を無言で歩く時、僕は大きな不安に襲われていた。
このままではいけない。絶対にこのまま別れてはいけない。
心の叫びが全身を震わせた時、もうバスターミナルは目の前だった。
涙の訳を聞けないうちに、2人は揃って電車を降りた。その頃二宮は、もうすっかり笑顔を取り戻していた。
大きな駅を出ると、目の前は繁華街だった。僕は久しぶりに見る人ごみに、酔ってしまいそうな気がしていた。
一方彼は、1人ではしゃいでいた。
マネキンの帽子を取って僕の頭にかぶせたり、その姿を携帯電話のカメラで撮影したり。
その時僕は、いろんな事を要求された。両手を広げて、とか。ジャンプしてみて、とか。
丸い目と厚みのある唇は、たしかに何度も僕に微笑みかけた。
だけど、何かが違っていた。
一見いつもどおりの笑顔なのに、どうしても彼が心から微笑んでいるようには思えなかったのだ。
何かおかしい。今日の彼は、絶対に普段の彼ではない。そう思っているうちに、どんどん時間は過ぎていった。
午後8時。僕のお腹は満たされていた。僕たちは街をブラブラした後、夕食に温かいピザを食べたのだ。
「バスで帰ろうか。ターミナルが近いし」
ピザ屋を出ると、彼がいきなりそう言った。
僕はその発言に違和感を覚えた。何故なら、帰ると言い出すのはいつも僕の役目だったからだ。
それだけではない。
バスターミナルは、たしかにそこから近かった。だけど、電車の駅も変わらない距離にあった。
普段の彼なら、僕と同じ電車に乗って帰る事を望んだはずだ。
僕たちが一緒にいられる時間はとても短い。だからこそ、少しでも長く時間を共有するためにそうするはずだった。
なのに彼は、2人が別々なバスに乗って帰る事を選んだ。僕はその事に、少なからずショックを受けた。
「行こう」
そっけなくそう続けて、彼が足早に歩き出した。
繁華街は、ネオンに包まれてとても華やかだ。だけど僕の目の前は、真っ暗だった。
二宮は今日で2人の関係を終わらせようとしている。今の様子を見て、そう確信した。
でも、どうして?
いったい僕の何が彼にそんな決意をさせたというのだろう。
もう考える時間はほとんど残っていない。バスターミナルへ向かう3分の間に、急いでその答えを導き出さなければならない。
僕はこうなった経緯を追ってみた。
僕と二宮は、すごくいい関係だったと思う。毎日会ったりはできなくても、2人は最初はうまくいっていた。
それがおかしくなったのは、僕が猫の話をした時からだ。問題は、間違いなくその事にあった。
2人は共通の不思議を体験している事が分かった。だったら絆は深くなりそうなのに、逆に彼は不機嫌になってしまった。
そしてそれは、多分今日まで続いていた。
二宮は、人間に似た猫の話に何故過敏な反応を示すのだろう。
とにかく何かが引っかかっていた。彼の心を揺るがす何かが、必ずそこにあるはずだ。
恐らく彼は、偶然バイト先の前を通りかかったわけではない。もしかして、僕に別れを告げるつもりできたのだろうか。
だけどそれもスッキリしない。
初めに見せた笑顔を思い出すと、彼がそんなつもりだったとはどうしても思えなかったのだ。
だったら二宮は、いつ別れを決意したのか。考えられるのは、電車の中しかない。
そうだ。あの涙は何だったんだ? あの時彼は、何故泣いたりしたんだ?
夜空を見上げて、僕は考えた。
もしかして、彼を深く傷付けてしまったのだろうか。
そんな自覚はないけれど、知らないうちに何かひどい事をしてしまったのだろうか。
こんな時だというのに、点在する星を眺めるとチビの顔が思い浮かぶ。
今日は帰りが遅くなってしまった。
チビはまだ眠っているだろうか。目覚めて僕がいない事に気付いたら、心細くて泣いてしまうだろうか……
そう思った瞬間に、星が1つ煌いた。そして僕は、突然閃いた。不意に導き出されたその答えは、自分自身に強い衝撃を与えた。
「トシくんは、人間の姿をした猫によく会うの?」
電車の中で、二宮は言った。
間違いない。彼は僕にそれを聞きにきたのだ。
二宮は以前、僕と一緒に暮らしたいと言った。その時僕は、猫を飼っているから無理だと答えた。
しかし彼は、気付いてしまったのだ。僕の飼っている猫が、普通の猫ではない事を。
チビはまるっきり人間と同じだった。話す言葉も、食べる物も、性欲も、すべてが人並みだ。
二宮は自分の経験から、チビがどんなふうなのか想像がついたはずだ。
一緒に暮らす僕たちの関係も、きっとすぐに覚ってしまったのだ。
逆の立場になって考えれば、よく分かる。
もしも二宮がチビのような猫と一緒に暮らしていたら……そうしたら僕は、平気でいられるだろうか?
彼の背中も、星空も、全部僕から遠ざかっていく。
なのに四角いバスターミナルだけが、徐々にこっちへ近付いてきた。
このまま別れたら、彼とはきっと終わってしまう……
「僕たち2人は、最初はうまくいっていた」
そんな事を言える僕は、初めから彼に愛される資格なんかなかったのかもしれない。