35.

 バスの待合室にはパラパラと人がいた。
壁に貼り出された時刻表を見つめて、二宮が小さくつぶやく。
「トシくんのアパートは西区だよな。5分後にそっちへ行くバスがくる……」
並んでベンチに腰掛けていても、彼は僕と目を合わせる事さえしなかった。 周りにいる人たちも、決してこっちを見ようとはしない。 そこは公共の場であり、隣に二宮もいるというのに、僕はあまりにも孤独だった。
ガラス戸の向こうを、次々とバスが走っていく。
何か話したいと思っても、胸が詰まって思うように言葉が出てこない。
正面に見えるのは丸い形をした壁掛け時計だった。その針は、何も言えないうちに確実に時を刻んでいった。
「明日の朝も、早いんだろ?」
二宮は、右手の爪を見つめてどうでもいい事を口走った。
軽く瞬きをすると、彼の長いまつ毛がゆっくりと動く。 でもあと5分足らずで、その様子を見る事すらできなくなってしまう。

 こんな事態を招いたのは、全部僕の責任だ。 それは分かっていたけれど、このままサヨナラするのはどうしても嫌だった。
時計の針が、涙で滲む。ここへきてから何分経ったのが……僕にはもう分からない。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
聞き慣れたその声が、すぐそばで聞こえた。ありがとうとサヨナラは、きっと同じ意味だった。
二宮は、このまま別れても平気なのだろうか。 中学生の頃からずっと僕を思っていてくれたのに、そんなに簡単に振り切れるものなのだろうか。
「トシくん、バスがきたよ」
彼が立ち上がろうとすると、ベンチがガタッと揺れた。
ガラス戸の向こうに、1台のバスがゆっくりとやってくる。それに乗ったら、僕たちの関係は本当に終わってしまう。
膝が震えて、心も揺れて、しだいに呼吸が苦しくなる。
二宮は、動き出せない僕の手をそっと掴んだ。
涙を落とした自覚はあるのに、手にはその感触がまったくない。それはきっと、涙を受け止めたのが彼の手だったからだ。
「泣かないで」
そう言われると、カチンときた。だって、そんなの無理に決まってるじゃないか。
いったいどんな顔をしてそんなセリフを吐いたのか、僕はちゃんと見てやりたかった。 でもその顔はぼんやりと滲んでいて、表情はまったく読み取れなかった。
君が言うとおり、僕は淋しくてたまらない。こんなふうにサヨナラするなんて、あまりにも切なくてとても耐えられない。
このまま別れるのは嫌だ。僕は絶対に君を離したくない。


 いったい自分のどこにあんな力があったのか。僕は彼の手をきつく握って、すぐにそこから飛び出した。
バスターミナルを出ると、ネオンに背を向けてひたすら走った。前にもこうして、どこからか逃げるように走り去った記憶がある。
溢れ出す涙は、向かい風が渇かしてくれた。彼が何かを叫んでも、ちっとも耳に入らない。
しばらく走ると、車のライトが眩しくて反射的に道を左へ曲がった。 すると僕たちは、薄暗いオフィス街へと迷い込んだ。小さなビルがあちこちにあるけれど、この時間は窓に光がまったくない。
それでも遠くの方に、また車のライトが見えた。僕はその光を避けるようにして、ビルの谷間へ駆け込んだ。
そこは都会の隙間だった。ビルの壁に挟まれた空間はとても狭くて、人1人通るのがやっとだった。
あぜ道のような場所を走ると、靴音が壁に反射した。時々体が何かにぶつかっても、絶対に彼の手は離さなかった。
「どこへ行くつもり?」
そう言われても、行き先なんか分からない。
ただ目の前を壁にふさがれると、行き場がなくなって必然的に立ち止まった。
そこは真っ暗で、目が慣れるまでは何も見えそうになかった。 2人の弾む息が、僕たちの存在をかろうじて証明してくれているだけだ。
背後に車の走る音が響いて、ビルの谷間に一瞬明るい光が差し込んだ。
瞬時に彼の唇の位置を確認し、その幻影が消えないうちにキスを仕掛ける。
二宮は僕と壁に挟まれて、絶対どこにも逃げられないはずだった。

 「ごめん、ごめんね」
最初のキスを終えて、やっとその言葉を搾り出した。自分のしてきた事を謝らないと、きっと何も始まらない。
体は酸素不足だし、視界が暗くて彼の顔はよく見えない。それでも温もりを頼りに、両手で頬を包み込む。
僕には君が必要だ。
それを伝えるために、もう一度ふくよかな唇に噛り付いた。
歯の間を割って、舌を奥まで滑り込ませる。
彼はキスには消極的だった。夢中になっているのは僕だけで、2つの舌が絡み合う様子は感じられなかったのだ。
一方的なキスは、やっぱり少し淋しい。
早く君の心を取り戻したい。
いつものように求め合い、君の温もりですべての不安を吹き飛ばしたい。
温い唾液を吸いながら、シャツの下をまさぐって白い肌に触れる。
するとその時、やっと彼にもスイッチが入った。塞いだ口の隙間から、微かに声が漏れ出したのだ。
「ん……」
ジッパーを下ろすのももどかしくて、右手をそのまま彼のジーンズへ押し込む。指先に硬いものが触れた時、僕は心から歓喜した。
カチャカチャと小さく音がするのは、彼が自分の手でベルトを緩めたからだった。
二宮は僕の手を欲しがっている。それが分かった時、すごく息が苦しくなってキスの継続を断念した。
口の周りには、彼の唾液がまとわりついていた。僕は小さく深呼吸を繰り返しながら、それを舌の先で全部舐めた。
「ん……あぁ……」
ベルトが緩んだ事で、僕の手はもっと奥まで入り込む事ができた。
掌に包み込んで、硬いものを優しく擦る。彼は感じていたけれど、いつもの癖で声は抑え気味だった。
きっと周りに人はいないし、別にいても構わない。僕は指でその先端を撫で回し、割れ目に爪を滑り込ませた。
「声を出しても構わないよ」
「あぁーっ!」
二宮は早速それに応えてくれた。我慢なんかしてほしくないから、それでいい。
「あ……あぁ……」
その声を聞くたびに胸が高鳴った。指先が、ヌルッとした体液で少しずつ濡れていく。
彼は間もなく射精する。その時僕は、脱力した肉体をしっかりと受け止めるのだ。
そして興奮が冷めやらないうちに、何度も好きだと彼に言おう。
今度はちゃんと言葉を使って、君が必要だという事をしっかり伝えよう。