5.

 子猫と僕の時間はとても静かに流れていった。
2人でご飯を食べて、時々遊びに出かけて、夜は1つのベッドで一緒に眠る。僕たち2人はそんな日々をずっと繰り返していた。
彼は僕にとってかけがえのない同居人だった。
実家にいた頃は家族の存在を疎ましく感じていたのに、いざ1人暮らしを始めると淋しくてしかたがなかった。 でも子猫のチビが一緒にいてくれると、そんな淋しさは遠い彼方へ消えていった。
無口な彼がそばにいてくれるだけで、心の隙間が埋め尽くされたのだった。


 静かだった2人の暮らしに突然変化が起こったのは、彼が来てから2週間が過ぎた日の事だった。
その日はバイトを終えた後、コンビニに寄って買い物をしてからアパートへ帰った。
子猫が劇的な変化を遂げた事なんか、もちろんまったく知らずに。

 「ただいま」
買い物袋をぶら下げて玄関へ入ると、いつものように彼が出迎えてくれた。
子猫は2週間前より随分大きくなっていた。
最初に買ってあげたティーシャツやショートパンツの丈が短くなったように見えたのは、彼の背丈が伸びたせいだった。
彼はいつものように微笑んでいた。ぽっちゃりした頬にエクボをたくわえて、とても嬉しそうに微笑んでいた。
涼しい部屋へ足を踏み入れた時、テレビは情報番組を流していた。子猫は大きな音が苦手なようで、その音量は低かった。
「今日はコーヒー牛乳を買ってきたぞ。半額になってたから」
僕はそう言ってテーブルの上に買い物袋を置いた。でも子猫はその中身に興味を示そうとはしなかった。
この日は夕方から雨になる予報が出ていて、太陽はすでに雲の向こうに隠れてしまっていた。 空気中には湿気が多く、そのせいか肌が少しベトついた。

 子猫は目の前に立って僕の顔をじっと見上げていた。
いつもならすぐ座布団とミルクを用意してくれるはずなのに、その日の彼はなかなか動こうとしなかった。
「どうした?」
僕は不思議に思ってそう言った。するとその時、突然驚くような事が起こったのだ。
「好き」
彼の唇がわずかに動いて、その声が湿った空気を震わせた。子猫は女の子のように高い声で、たしかにそう言ったのだった。
僕は彼が話すのを初めて聞いた。子猫は鳴き声を上げる事はあっても、人間の言葉を話す事はそれまで一度もなかったのだ。
「お前、喋れるようになったのか?」
あまりの驚きに、僕の声は裏返ってしまった。しかし驚くのはまだ早かったのだ。

 それはあっという間の出来事だった。
小さな両手が突然僕の肩に置かれ、子猫が勢いをつけて精一杯背伸びをした。
一瞬目の前が暗くなったかと思うと、唇の上に何か温かいものを感じた。
それは僕と子猫が初めて交わした短いキスの感触だった。


 気が付くと、彼はもう僕から離れていた。
子猫は上目遣いに僕を見つめ、口許だけでわずかに微笑んでいた。
僕は一瞬言葉を失った。まさかこんなサプライズが待っているなんて、思ってもみなかったのだ。
高鳴る心臓の音が、微かに聞こえていたテレビの音をかき消した。彼の二色の髪は、エアコンの涼しい風に揺られていた。
「好きな人とは、こうするんだよね?」
子猫は喋った。たしかに、はっきりと、人間の言葉で。
彼は僕を動揺させていた。唇をぶつけ合うだけの短いキスが、僕の心を激しく揺さぶっていた。
「お前、いったいどこでそんな事を覚えたんだ?」
やっとの思いでそう尋ねると、彼が静かにテレビを指さした。その時テレビは車のコマーシャルを流していた。
太陽が身を潜めていたので、部屋の中には日差しがまったく入らなかった。 彼は光のない部屋の真ん中で、真っ直ぐに僕を見つめていた。
僕はその澄んだ目に吸い込まれてしまいそうだった。
すごくドキドキして、何も考えられなくなって、小雨が降り出した事にもしばらく気付かなかった。
僕はこの時から彼を猫ではなく1人の人間として意識するようになった。