6.

 夕方から降り出した雨は夜中になっても止む事がなく、小さな雨粒が窓ガラスを延々と叩き続けていた。
ポツ、ポツ、ポツ……
窓ガラスを叩くか細い雨音が気になって、ベッドの上で何度も寝返りを打った。 でもそれ以上に気になっていたのは、隣で眠る彼の事だった。
チビは仰向けになってスースーと寝息をたてていた。
部屋の電気は消していたけれど、外灯の光がカーテン越しに部屋の中へ入り込んでいた。 微弱な白の光は、彼のぽっちゃりした頬を淡く照らしていた。
エアコンをつけっ放しで横になっているのに、僕の体はすごく熱くなっていた。


 「名前を教えて」
チビはグラスにミルクを注ぎながらそう言った。それは僕たちがキスをしたすぐ後の事だった。
僕は座布団の上に腰掛けて、ドキドキしながらミルクがグラスに注がれる様子を眺めていた。
グラスが満たされてチビが隣に座ると、更に心臓が高鳴った。
「僕の名前は、森本俊樹。友達には、トシくんって呼ばれてる」
そう言った時に、初めて気付いた事がある。
実家を遠く離れたこの街には、僕を "トシくん" と呼ぶ人は誰もいない。 それどころか、僕に声を掛ける人すら皆無に等しかった。 誰も僕を呼んだりしないから、チビはずっと同居人の名前を知らずにいたのだ。
「トシくん、好き」
冷えたグラスに手を伸ばした時、彼がはっきりした口調でそう言った。
僕の体温は、その時からずっと上昇し続けていたのだった。


 布団を被って目を閉じても、まったく眠れそうな気配はなかった。
その訳は自分が1番よく知っていた。
僕が寝付けないのは、決して雨音が気になるせいではなかった。唇に残るキスの感触が、僕をひどく興奮させていたのだ。
チビと2人暮らしを始めて以来、僕は一度も性欲を発散した事がなかった。
1人でいた頃は気の向くままにマスターベーションをしていたけれど、そばに彼がいるとそういうわけにはいかない。
本当はすぐにでも性欲を吐き出すための行為を始めたいのに、チビにその気配を覚られるのがすごく怖かった。 かといってその行為をまっとうしなければ、一睡もしないうちに朝を迎えてしまいそうな気がしていた。
下半身の一部が硬くなっている事は、手で確かめなくても重々承知していた。 それを休ませる方法も、もちろんよく分かっていた。

 硬くなったものがトランクスと擦れ合った時、僕はとうとう決心した。
もう我慢できない。仕方がないから、トイレに行ってマスターベーションをしよう。
そう思って体を起こすと、薄明かりが光沢のあるパジャマを一瞬キラリと輝かせた。
その時僕は実家にいた頃の事を思い出した。
実家の団地は部屋数が少なくて、僕は家を出るまでずっと1人部屋を持つ事ができなかった。
11歳の弟と共用していた部屋には二段ベッドが置かれていた。 普段弟は上のベッドで眠るのに、風の強い日だけはいつも下のベッドで僕と一緒に横になった。 幼い弟は風の音がすごく苦手だったからだ。
そんな夜は、やっぱり不自由していた。 半分その気になりかけていても、弟がそばにいるとマスターベーションは中止せざるを得なかったのだ。
そういうわずらわしさを解消したくて家を出たのに、僕は結局また同じ事を繰り返していた。

 「トシくん?」
いよいよ立ち上がろうとした時、眠っていたはずのチビに突然声を掛けられた。
その時は一瞬ビクッとした。これから悪い事をしようとしている時に、先生に見つかったような気分だった。
「どこ行くの?」
チビは両目を擦って小さくあくびをした。微弱な白い光は、潤んだその目を煌かせた。
彼は熟睡していると思っていたのに、その眠りは浅かったようだ。
「どこにも行かないよ」
僕はもう一度横になって軽く深呼吸をした。やけに動悸が激しくて、今立ち上がるとフラついてしまいそうな気がした。
薄明かりに照らされる天井の木目が、何故だか少し歪んで見えた。
「トシくん、好き」
チビは甘えるようにそう言って僕にくっ付いた。
彼はもちろん裸で横になっていた。布団の位置がわずかにずれると、薄明かりがチビの細い肩を照らした。
彼の手が胸の上に置かれた時、体中から大量の汗が噴き出した。チビはきっと、僕の心臓が大きく脈打っている事に気付いていた。

 首筋に彼の息を感じた。そういう事は今までにもあったのに、今夜だけはその気配に胸が騒いだ。
光沢のあるパジャマは僕の汗を少しずつ吸い取っていった。 体が熱くて、下半身はむず痒くて、このままではどうやっても眠れそうになかった。
「暑いの?」
チビはそう言って額に浮かぶ汗を拭ってくれた。彼の髪が首筋に触れると、少しだけくすぐったかった。
ただでさえ暑いのに、チビにくっ付かれるとますます体温が上昇した。
「暑いよ。離れて」
「だって、好きな人とはこうして眠るって決まってるんだよ」
チビはそう言って僕の肩に額を当てた。
彼は明らかに "好き" という言葉の意味を取り違えていた。
友達に対する "好き" と恋人に対する "好き" ではまるで意味が違ってくる。 でもそれをどう説明したらいいのか僕には分からなかった。それに、あえて説明しようとも思わなかった。


 彼の手が軽く鼻に触れた時、僕はなんとなくチビの方へ顔を向けた。
僕たちはすごく近いところで目が合った。
チビは白い歯を覗かせてわずかに微笑んでいた。頬のエクボが可愛らしくて、一瞬だけ気持ちが和んだ。
チビが行動を起こしたのは、その直後だった。
突然息ができなくなったのは、彼の唇で口を塞がれたせいだった。
本当の事を言うと、なんとなくそうなる予感はあった。もっと言うと、心のどこかでそうなる事を期待していた。
二度目のキスは、最初のキスとはまったく違っていた。それは唇をぶつけ合うだけの子供っぽいキスではなかった。
ザラついた舌が唇を割って歯に当たり、それはすぐに僕の舌と出会った。
僕はそれから何度も舌を吸われた。すると、どうしようもなく感じてしまった。
こんなのは間違っている。こんな事をしてはいけない。 チビは何も分かっていないのだ。彼は僕に恋しているわけではないのだ。
頭の隅にはたしかにそういう思いがあった。でも、いざその行為を始めてしまうともう歯止めがきかなくなった。
裸の彼を抱き寄せると、ベッドがギシッと音をたてた。枕が湿っているのは、首筋から流れ落ちる汗のせいだった。
窓ガラスを叩く雨音が、徐々に耳から遠ざかっていった。舌を吸ったり吸われたりを繰り返して、長い時間が流れていった。
僕は彼とのキスに溺れ、寄せては引いていく快感の波に揺られていた。