8.

 バイトが終わった頃、もうすっかり道は乾いていた。
昨夜の雨が嘘のように、空にはギラギラした太陽が輝いていた。朝よりもだいぶ気温が上がっていて、少し歩くと体中から汗が噴き出した。
僕の帰る家は1つしかない。それはよく分かっていたけれど、アパートへ向かう足取りは重かった。
昨夜あんな事があったのに、どんな顔をしてチビと会えばいいのだろう……
僕はずっとそればかりを考えながらアパートへ続く道を歩き続けていた。
まさか彼とあんな事になるなんて、夢にも思わなかった。
チビと顔を会わせるのは気まずかったし、恥ずかしくてたまらなかった。 できる事なら、今日ぐらいは彼と会わずにいたいと思っていた。
それなのに、昨夜の出来事を思い出すと体の一部がわずかな反応を見せた。 僕の心と体は、明らかに矛盾していたのだった。

 そうこうしているうちに、アパートの赤い屋根が見えてきた。
道の真ん中に立ち止まって額の汗を拭うと、無邪気な子供たちが僕の横を走り抜けて行った。
何事もなかったかのように、昨夜の出来事なんか忘れてしまったかのように、毅然とした態度で彼と向き合えばいい。
僕は赤い屋根を見つめて自分にそう言い聞かせた。それからまた重い足を引きずってノロノロと歩き始めた。
僕は部屋へ戻る前にアパートの階段で休憩を取ろうと思っていた。 そこで少し深呼吸をして、心の準備を整えてからチビの待つ部屋へ帰ろうと思っていたのだ。
ところが、その計画はあっさりと崩れてしまった。
アパートの前へ辿り着いた時、錆付いた階段にチビが腰掛けているのが見えたのだ。
彼は背中を丸めて俯き、じっと地面を見つめていた。その姿を見た時は、急に心臓が高鳴った。
ティーシャツの襟元から覗く鎖骨や、ショートパンツから伸びる細い足が、僕をすごくドキドキさせたのだ。

 僕はアパートの前に突っ立って、しばらく動けずにいた。
やがてチビはそっと顔を上げ、まぶしそうに目を細めた。 その目が潤んでいるのを知った時には、胸がぎゅっと締め付けられる感覚を味わった。
「トシくん!」
チビはすぐに立ち上がって、僕の胸に飛び込んできた。
二色の髪はお日様の匂いがした。恐らく彼は、随分前からそこにいたのだろう。
「よかった。もう帰ってこないかと思った」
彼は僕の胸に顔を埋め、小さな声でそう言った。
その時は深く反省した。今朝黙って家を出たせいで、彼に不安を与えた事が分かったからだ。
それまで僕は、大事な事をすっかり忘れていた。
見た目は人間と同じでも、彼はやっぱり猫なのだ。 チビはまだ幼い子猫だから、世の中の事がよく分かっていないのだ。
人は当然のように学校や職場へ行き、当然のように家に帰ってくる。 彼にはきっと、そういう当たり前の事が分からなかったのだ。
「僕はちゃんと帰ってくるよ。毎日ここへ帰ってくるから、安心して」
僕はひどく陳腐な言葉で彼を安心させようとした。何も分かっていないのは、本当は自分の方だったというのに。
「ほら、部屋へ戻ろう。ここは暑いから、早く涼しい風に当たろうよ」
そう言って頭を撫でてやると、チビが静かに顔を上げた。
ぽっちゃりした頬は、わずかに赤く染まっていた。長い間太陽の下にいたせいで、きっと日に焼けてしまったのだ。
僕が笑うと、彼もぎこちなく笑った。小さな唇を横に広げて、チビはたしかに微笑んだ。


 涼しい部屋へ入った頃、チビはいつもの調子を取り戻しつつあった。
彼はベッドの脇に立って僕を見つめ、どこかで聞いた事のあるセリフを口にした。その時彼は、もちろん笑顔だった。
「お帰り、トシくん。ねぇ、お風呂が先? ミルクが先? それとも、ベッドが先?」
「お前、また変な事を覚えたんだな」
そのセリフを聞いた時は、思わず苦笑いをした。彼はきっと昼頃放送されているメロドラマでも見たのだろう。
エアコンの涼しい風が、二色の髪を軽く揺らしていた。赤く染まった頬に手をやると、チビはゆっくりと目を閉じた。
小さな唇に短いキスをすると、すぐに彼が欲しくなった。
本当は、お風呂よりもセックスよりも先にやるべき事がたくさんあった。
洗濯物はたまっていたし、掃除もしたかったし、大家さんの所へ家賃を払いに行かなければならなかった。
それでも僕は、どうしても今すぐ彼が欲しかった。
「ベッドが先だね?」
短いキスが済むと、チビがたしかめるようにそう言った。
彼はすごく敏感だった。僕の気持ちは、すべて見透かされていたのだった。

 チビは次々と洋服を脱ぎ捨て、明るい光の下に惜し気もなく裸体を晒した。
気のせいか、彼は昨夜よりも少し背が伸びたように見えた。チビが脱いだ洋服は、僕の足元に散らばっていた。
「トシくんも早く脱いで」
明るく元気にそう言われると、なんだかすごく恥ずかしくなった。
僕はチビの細い体を上から下まで舐めるように見つめた。すると彼が興奮しているのがすぐに分かった。
白っぽい乳首はツンと立ち上がっていたし、下半身の一部は明らかに大きくなっていた。 それを確認した後、僕はある異変に気付いたのだった。
チビの下腹部に、小さな黒い斑点のようなものがいくつか見えた。その上をそっとなぞると、チクッとした感触が指先に広がった。 それは前にも1度味わった事がある感触だった。
「チビ、とうとう毛が生えてきたぞ」
「え?」
彼はその時まだ自分の体の変化に気付いていなかったようだ。 チビは下腹部に現れた黒い斑点を確認してから、不思議そうな目をして僕に問い掛けた。
「これ、どういう事なの?」
「お前が大人になった証拠だよ」
その時僕は、彼が喜ぶと思ってそんな言い方をした。
幼い頃は、誰しもが早く大人になりたいと思うものだ。 自分の体が成長して大人に近づく事は、誰でも嬉しいものだと信じきっていた。
だけどチビの思いは少し違っていたようだ。それに気付いたのは、彼が一瞬目の表情を曇らせた時だった。
「どうした? お前、嬉しくないのか?」
僕が問い掛けると、チビはそっと俯いてきつく唇を噛んだ。 そしてその後、彼は渾身の力を込めて僕をベッドへ押し倒したのだった。

 その時は、見事に不意を突かれた。
いきなり彼に胸を押され、体のバランスを崩してベッドの木枠に頭をぶつけてしまった。 あまりにも勢いよく倒れたので、背中の下でマットが大きく軋んだ。
「うっ……」
頭のてっぺんに激痛が走り、僕は思わず呻いた。右手で必死に頭を撫でると、そこにこぶができたのがすぐ分かった。
しかしチビはそんな事にはお構いなしだった。 頭の痛みと戦っている間に、彼はさっさと僕のジーンズを引きずり下ろしてしまったのだ。
気が付いた時にはもう下腹部が露になっていて、チビは迷わず僕の先端を指で撫で始めた。
「ちょっと待って」
僕は顔をしかめてそう言った。
部屋の中はあまりにも明るすぎた。せめて太陽の日差しを遮るために、カーテンを引きたいと思ったのだ。
「カーテンを閉めるから、ちょっと待って」
僕はそう言って窓に手を伸ばした。しかしチビは僕の言う事をちっとも聞いてくれなかった。

 チビが僕の上にまたがると、一気に体の力が抜けていった。 彼は僕の声に耳を貸さず、すぐにセックスを強行してしまったのだった。
彼の中は相変わらず窮屈だった。狭くて温かい壁が、何度も何度も僕のものを擦った。
周りが明るかったので、昨夜と違ってチビの様子がよく分かった。 目の前には薄く霞がかかっていたけれど、その向こうにはっきりと彼の姿が見えた。
チビは大きく目を開いて、じっと僕を見下ろしていた。唇はきつく結ばれていて、柔らかな腰が上下に揺れていた。
僕の身に、短い間隔で次々と快感が押し寄せてきた。
彼の腰に手を伸ばすと、スベスベした肌の感触が掌に伝わった。僕はカーテンを引く代わりに瞼を閉じて、やがて訪れる絶頂の時を待った。
本当はもっとゆっくりこの行為を楽しみたかった。 時間はたっぷりあるのだから、もう少し余裕を持って、じっくりと穏やかに彼と愛し合いたかった。
なのにチビは、何故だかひどく急いでいた。