10.
僕はそれから髪を伸ばす決心をした。自分がそんな決心をしたのは、僕にとって驚くべき事だった。
僕は髪が長かったせいか、幼稚園に通っている頃よく女の子に間違えられた。初めて会う大人の人は僕の事を大抵女の子だと勘違いした。
そういう事が続くと、僕はその事にたまらなくイライラした。
だから僕は小学校へ入学する前に肩の上ぐらいまであった髪をバッサリ切り落としたんだ。
指でつかめる髪がほとんどないぐらいのショートカットにすると、やっと自分が本物の男になれたような気がした。
それ以来僕の姿を見た人が性別を間違える事はなくなったけど、今度は別な問題が起きた。
黒いランドセルを背負って小学校の入学式へ行った時、僕は自分が女の子の扱いをされている事を知った。
教室に入ると、担任の先生は男子から先に出席を取り始めた。
でも同じクラスの男子児童が次々と先生から名前を呼ばれるのに、僕は最後まで名前を呼ばれる事がなかった。
僕は初音という名前を持つ事で女の子と間違えられ、なんと女子児童の名簿に入れられていたんだ。
そして入学式の後、僕は家へ帰って泣きながら母さんを責めた。
どうして自分にもっと男らしい名前を付けてくれなかったのかと、いつまでも母さんを責めた。
あの日の母さんは髪を綺麗にセットして、明るいピンク色のスーツを着ていた。
僕がしゃくり上げて泣くと、母さんは自分の洋服が汚れるのも気にせずに僕を抱き締めてごめんね、と言ってくれた。
僕はそれからずっと髪を長く伸ばした事がなかった。そしてもう一生髪を伸ばす事はないと思っていた。
冬休みが近づいていた頃、僕は毎日明るいうちに家へ帰るようになっていた。
少しでも竜二と2人でいる時間を増やしたかった僕は、放課後武志や誠に付き合わず、彼と同じ地下鉄に乗って帰るようにしていたからだ。
もちろん竜二はさっさと彼女に会いに行ってしまうけど、それでも僕は放課後彼と過ごす短い時間を愛した。
だけど、早く家に帰っても退屈なだけだった。
リビングのソファーに寝転がってぼんやりしていると、どうしても竜二の事ばかり考えて苦しくなってしまう。
そんなある日、僕はふと何気なく母さんの部屋へ行ってみた。日当たりの悪いその部屋へ入るのは、例の日記を見つけた日以来だった。
母さんの部屋には机とクローゼットと鏡台が置いてあるだけだった。
僕は薄暗い光の下で鏡台の椅子に腰掛け、自分の姿を鏡に映してため息をついた。それは自分の髪がまだすごく短かったからだ。
髪を伸ばす決心をしたからといって、1週間や2週間で突然髪が長くなるはずはなかった。
中学生になった頃から前髪と横の髪は多少長くするようにしていたけど、短く刈り上げた後ろ髪が伸びるまでにはまだ長い時間がかかりそうだった。
前髪をつかんで思い切り引っ張っても眉毛が隠れるような事は決してなかった。そして後ろ髪はやっと指でつかめる程度だった。
僕がどうして髪を伸ばす決心をしたのか。その理由は2つあった。
1つ目は、竜二と同じになりたいと思ったからだ。
僕も彼と同じように半端に伸びた後ろ髪をいじってみたかったんだ。
そしてもう1つの理由は、昔の自分に戻りたかったからだ。
今の僕では彼に告白する事さえできない。そしてもちろん失恋する事もできやしない。
『この次生まれてくる時は男になりたい。そうすれば、愛する人とずっと友達でいられるから』
昔の自分が本気でそう思ったのだとしたら、あまりにも愚かだったと言わざるを得ない。
好きな人とずっと友達関係を続けるのはすごく苦しい。竜二と友達以上の関係になれないのは、本当に苦しい。
そんな事も想像できないなんて、昔の僕はあまりにもバカだった。
もしも僕が女に生まれていたら、きっとこれほど苦しい思いをする事はなかった。
彼が振り向いてくれたかどうかは分からないけど、今と違ってそうなるように努力する事ぐらいはできたはずだ。
だけど、今の僕には何もできない…
僕は昔の自分に戻りたいと強く思った。どうしても女の子だった自分に戻りたいと思った。
それが無理なら、せめて女の子に間違われた頃の自分に戻りたいと思っていた。
僕は短い髪をした自分の姿を見つめ、もう一度深くため息をついた。そしてその後、鏡に映るクローゼットのドアに目がいった。
僕は立ち上がり、白いクローゼットのドアを開けてみた。するとそこには母さんの洋服がハンガーに掛って何着も吊るされていた。
そこには綺麗な色の洋服がたくさんあった。淡い黄色や、透き通るような水色。薄暗い部屋の中でも、クローゼットの中だけは花が咲いているかのように明るく感じた。
人間は退屈するとろくな事を考えない。
色とりどりの洋服を目の前にした時、僕の心の中からスカートをはいてみたいという欲求が顔を出した。
そして僕は、すぐにそれを実践してみる事にした。
僕はゆっくりと淡い黄色のスカートに手を伸ばした。その時はすごくドキドキして、微かに手が震えた。
母さんはわりと小柄なせいか、手に持ったスカートの丈はすごく短く感じた。
部屋着にしているジャージを脱ぎ捨て、スカートに足を通す。すると、わりとすんなり欲求は満たされた。
生地の薄いそのスカートをはくと、足元がスースーしてすごく涼しく感じた。それは半ズボンをはく時とは全然違う感覚だった。
僕は自分の姿を鏡に映してみた。
スカートの長さは僕のちょうど膝の上ぐらいまであった。クルッと一回転してみると、スカートの裾がわずかに円を描いて広がった。
それほど悪くないな…
それが、スカートをはいた自分への感想だった。
それから僕はスカートをはいた自分の姿をまじまじと見つめ、肩の上まで髪が伸びた時の事を想像してみた。
鏡に映る僕は色白で、目が大きくて、まつ毛がすごく長かった。それに唇の形も綺麗だった。
これで髪が伸びれば、結構かわいいかも…
それが、髪の伸びた自分への感想だった。
僕は鏡に映る自分の姿を長い間見つめていた。
髪を伸ばしてスカートをはけば、自分はそのへんの女の子には負けないような気がしていた。
でも、だからといってどうにもならない事はよく分かっていた。
スカートをはいても髪を伸ばしても、僕が男である事に変わりはない。僕が男である以上、竜二と結ばれる事は絶対にあり得ない。
その事実を改めて意識した時、僕は久しぶりに泣いた。