9.

 その朝登校するために乗った地下鉄の中で竜二と会った時、僕はまともに彼の顔を見る事ができなかった。
僕は数時間前に彼と唇を重ね合い、甘く幸せなひと時を過ごしていた。
でもそんな事を知るはずのない彼はいつものように僕に近づいておはよう、と元気よく言ってくれた。
通学ラッシュで混み合う朝の時間帯。人の多い車両の中で会った僕たちは必然的に密着していた。
「なぁ、数学の宿題やってきた?」
竜二の掠れた声がすぐそばで聞こえた。時々地下鉄が揺れると、僕と彼の体が同じ方向へ傾いた。 その瞬間にスッと息を吸い込むと、竜二の男っぽい香りが僕の鼻を刺激した。
「やってきたならノートを見せてくれよ」
竜二がそばで何か言うたびにどんどん体が熱くなっていった。
彼を照らす明かりと、掠れた声と、男っぽい香り。竜二を直視できない僕は、そういう物で彼の存在を感じていた。

 僕は竜二がそばにいると彼を意識してろくに顔も見られなかったし、思うように話せなくなっていた。
でも授業が始まると少し離れた席に座る彼を自分のペースで見つめる事ができた。 彼と目が合いそうになるとドキドキしてしまうから、後ろから細い背中を見ているのが1番ほっとした。
竜二は先生が黒板に書く文字をノートに書き写しながら半端に伸びた後ろ髪を何度も手でいじっていた。 レイヤーの入った後ろ髪が詰め襟の内側に入り込むと、彼はそのたびに右手でさっとそれを外側へと追いやるのだった。
彼は無意識にそうしていたのかもしれないけど、僕の方はちゃんと意識してその様子を眺めていた。
そして自分もそっと彼の仕草を真似てみた。でも僕の髪はあまりに短くて、後ろ髪は指でつかめるほどの長さはなかった。
竜二の隣の席の人が彼にちょっかいを出すと、僕は内心おもしろくなかった。
そんな時僕は裏表のある自分にすごく戸惑いを感じた。
僕は涼しい顔をして彼と友達関係を続けながら、心の中では彼に近づくすべての人たちに嫉妬していた。
そして僕はふと思うのだった。
大昔の僕はこの嫉妬深さや独占欲の強さで彼を失ったのではないか…と。
僕は顔も覚えていない占い師の言葉にすっかり支配されていた。
彼への思いをはっきり意識し始めた時から、僕は何度もその思いに押し潰されそうになっていた。

 すべての授業が終わると、いつものように3人の仲間たちと一緒に校舎を出た。
校舎を出てから校門までは約100メートルぐらいの距離があった。 砂埃の舞う道を4人並んで歩くのはこの100メートルの距離だけと決まっていた。
校門へ続く道の両側には園芸部員の植えた白い大輪の花が揺れていた。そしてその花の向こうには校庭をランニングする陸上部員の姿が見えた。
青い空の下にはのんびりと歩く黒い学ランの群れがあった。でも、黒い群れは校門を出た途端に四方八方へと散っていく。
僕は校門を出るといつも武志や誠と一緒に右へ曲がってアイスクリーム屋へ向かった。 そして竜二だけは左へ曲がって緑のトンネルの下を颯爽と歩いて行ってしまう。それが普段の僕らの別れの瞬間だった。
「じゃあな、バイバイ」
その日も校門を一歩出た時、竜二はいつも通りそう言って僕たち3人に背を向けた。そして武志と誠は彼に小さく手を振った。
竜二はそれから急ぎ足で緑のトンネルの下を歩き、下校する他の生徒たちの姿に混じってその背中は少しずつ小さくなっていった。 彼はそんな時も無意識に半端に伸びた後ろ髪をいじっていた。
「初音、行こうよ」
僕が立ち止まって竜二の背中を目で追っていた時、小柄な武志がそう言って僕の肩を叩いた。
でも僕はその声を振り切り、もう一度竜二と2人で緑のトンネルの下を歩く事に決めた。
そんな事をしてもどうにもならない事は分かっていた。そんな事をしたらもっと傷付くという事もよく分かっていた。 でも僕はどうしてもそうせずにはいられなかった。
僕は大地を蹴って青い空の下を駆け出した。まるで見えない糸に引かれるようにして彼の後を追いかけた。
緑の匂いを嗅ぎながらたくさんの人たちの背中を追い越して彼に近づくと、竜二は茶色の髪を揺らして僕を振り返った。
その時彼は夢の中と同じように白い光を背負っていた。僕はずっと追いかけていたその光に目がくらみ、 その瞬間彼がどんな顔をしていたのか確認する事ができなかった。
でも僕にとってはその方が好都合だった。彼の目を直視すると、ドキドキしてしまいそうだったからだ。


 学校帰りに竜二と2人で地下鉄に乗るのは久しぶりだった。2人並んでゆったりとした座席に腰掛けるのもすごく久しぶりだった。
地下鉄が揺れて隣に座る彼の腕が僕の体にそっと当たる感触も、僕たち2人の間に流れる空気も、本当に久しぶりに味わった。
最初のうち僕らは口数が少なかったけど、たとえどんな雰囲気だったとしても僕にとって彼と2人で過ごす時間はとても大切だった。
「追いかけてきてくれて嬉しかったよ」
地下鉄に乗って5分ぐらい経った時、竜二がボソッと小さくそうつぶやいた。
その時の彼は本当に嬉しそうに笑って僕を見つめていた。その切れ長の目と視線がぶつかり合うと、僕はやっぱりドキドキした。
「たまには竜二と2人で話したかったんだ」
僕はそれを言うだけで精一杯だった。そして僕は案の定それ以外に一言も喋れなかった。
竜二はその後昨日見たテレビの事とか最近読んだマンガの事なんかをおもしろおかしく僕に話してくれた。
彼は時々目を細めたり、声を上げて笑ったりもした。そしてその間に何度も半端に伸びた後ろ髪を手でいじっていた。
僕は彼の話にただ頷いていたけど、その話から敏感にいろんな事を感じ取って少し悲しくなった。
彼が昨日見たというテレビ番組は、夕方5時から放映されていたものだった。そして夕方5時頃といえば、彼が間違いなく彼女と会っている時間だった。 そして彼が最近読んだマンガというのは、どちらかというと男よりも女の子にうけているマンガだった。
竜二は昨日、きっと彼女と一緒にテレビを見たんだ。竜二は最近、きっと彼女の好きなマンガを読んだんだ。
どうしてそんなふうに考えてしまうんだろう。どうしてそういう事に気づいてしまうんだろう。
傷付く事が分かっているのに、僕はどうして彼を追いかけたりしたんだろう…

 彼と2人きりの短い時間はあっという間に終わりを告げた。
竜二のたわいのない話が済むと、やがて彼の降りる駅が近づいてきた。
「じゃあな、バイバイ」
彼はゆっくりと席を立って僕に小さくそう言った。この日の僕は、結局そのセリフを2度聞いた。
スッと立ち上がった竜二はとても大きく見えた。真っ黒な学ランの袖は、少し短くなりすぎたように思えた。
竜二は立ち上がった後もう二度と振り向かず、車両の床の上をただスタスタと歩き、地下鉄が停車してドアが開くとさっさと ホームへ降りてしまった。
僕は地下鉄の窓からそんな彼の背中をたった1人で見送った。
少しずつ少しずつ小さくなっていく彼の細い背中。僕はその背中に向かって心の中で大きく叫んでいた。
『行かないで。ずっと僕のそばにいて』
でもそんな心の声は空しく僕の脳裏に響くだけだった。その時僕の声を聞いていた者は恐らく誰もいなかった。
彼はもちろん迷わず改札を抜け、やがて僕の視界から消え去ってしまった。するとその時、再び僕を乗せた地下鉄が走り始めた。
1人になった僕は、お尻の位置をずらして彼の座っていた場所に腰掛けてみた。 するとそこには決して触れられない彼の温もりが残されていた。

 『行かないで。ずっと僕のそばにいて』
そんな事は絶対彼には言えない。
それは、僕が男だから。
それは、僕たちが友達だから。
でもこのつらい現実は、もしかして遠い昔に僕自身が望んだ結果だったのかもしれない。