12.
僕は誠と一緒に地下鉄を降りて彼の家へ向かった。
駅を出ると、また北風に煽られた。
駅前通りには飲食店が並んでいて、僕らと同じように肩をすぼめて歩く人たちの姿がたくさんあった。
僕らの足音は、通り過ぎる車の音によってかき消された。僕の心は、冷たい空気によって凍り付いてしまいそうな気がした。
僕は背の高い誠の横顔を見上げて歩いていた。
今まであまり気にした事はなかったけど、よく見ると彼の鼻はすごく高かった。そして顎のラインはシャープだった。
冷たい風を真っ向に受けて、彼の黒い髪が立ち上がっていた。
「このラーメン屋、結構うまいんだぞ」
赤いのれんが揺れるラーメン屋の前を通り過ぎる時、誠が小さくそう言った。その時、おいしそうな香りが僕の鼻をついた。
彼の家へ着くまでの5分間の道のりで誠が口を利いたのはその時だけだった。
誠の家は駅前通りから少し奥まった場所にあった。
三角屋根の大きな家。彼の家の外観は、そんな印象だった。
その時誠の家には誰もいないようだった。彼が自分の鍵を使って玄関のドアを開けた時、僕はそう思った。
玄関へ入ると、下駄箱の上に風景画が飾られていた。
緑の山と、青い空と、紫色の湖。僕はその絵に描かれた場所を知っているような気がした。
僕は誠に促され、ミシミシいう階段を上って彼の部屋へ向かった。誠の部屋は日当たりが良くて、眩しいぐらいに明るかった。
その部屋は狭かったけど、妙に落ち着く空間だった。
そこへ辿り着くまで僕と彼との間に流れる空気は張り詰めていたけど、彼の部屋へ入った途端に何故だかすごくほっとした。
僕らは窓際に置かれたコタツに入って冷え切った足を温めようとした。
背中の後ろには窓があって、冬の太陽が僕らの背中を照らしていた。
誠の部屋はすごく綺麗に片付いていた。手作り風の本棚には文庫本がぎっしり詰め込まれ、学習机の上はスッキリと整頓されていた。
僕たちは足が温まるまでほとんど口を利こうとはしなかった。でもそれは気まずい沈黙ではなかった。
誠は僕の隣に座ってしばらく両手をこすり合わせていた。
部屋の中には掌の擦れ合う音が小さく響き、窓の外からは時々車の走る音が聞こえてきた。
そして冷たかった足がポカポカしてきた頃、僕は誠に突然こう言われた。
「ハンカチを貸そうか?」
その時僕は、隣にいる彼をじっと見つめた。誠も両手を擦り合わせるのをやめ、探るような目つきで僕を見つめていた。
彼は最後まで竜二の名前を口にしなかった。それが彼の優しさである事に、僕はとっくに気づいていた。
誠の真っ直ぐな視線と、高い鼻と、尖った顎。そして彼の肩越しに見えた机の足。
僕はその景色を前にも一度見た事があるような気がした。でもそれがいつだったのか思い出せないうちに、その景色が涙で滲んだ。
ずっと泣くのを我慢していたけど、その気力はもう限界だった。
竜二が彼女に優しく話す声や、彼女の上品な香り。僕はそのすべてに打ちのめされていた。
とめどなく涙が溢れて、その温かい雫が手の甲に次々と滴り落ちた。皮肉にも、冷え切った僕の手は涙によって温められた。
誠は僕にハンカチを差し出したりはしなかった。その代わりにそっと僕を抱き寄せ、広い胸で泣かせてくれた。
「もうあまり無理するなよ。初音が我慢してるのを見ると…すごくつらいんだよ」
心配げな誠の声が、優しく彼女に語り掛ける竜二の声を僕の耳から追い出してくれた。
夢中で彼の胸にしがみつくと、僕を抱き寄せるその手に力が入った。
『君は、いつから知ってたの?僕が竜二を見つめている事を、いつから知ってたの?』
頬に伝わる誠の心臓の早鐘が、とても心地よく僕の心に響いた。初めて聞く彼の心臓の音は、僕をすごく安心させた。
僕は最初は竜二の事が原因で泣いてしまったけど、途中からその涙の意味が変わった。
僕は誠の優しさが愛しくて、しばらくずっと泣き続けた。
その部屋には彼の優しさが溢れていた。彼の部屋へ入ってほっとしたのは、きっとそのせいだった。
やっと気持ちが落ち着いて彼の胸を離れた時、窓の外は薄暗くなっていた。床の上には、机の足が影となって映し出されていた。
ひとしきり感情を吐き出すと、僕は恥ずかしくて顔を上げられなくなった。誰かの胸で長い間泣き続けるなんて、僕には初めての経験だった。
僕は誠の顔を見る事ができず、それからずっとコタツテーブルの木目を見つめていた。そして僕は、誠の長い独り言を聞いた。
「俺…初音を最初に見た時、初めて会うような気がしなかった。うまく言えないけど、お前の事をずっと前から知ってたような気がしたんだ」
誠は時々指の関節を鳴らしながらボソボソと小さな声で語り続けていた。
僕はその言葉を聞いた時、驚いて心臓が止まるかと思った。それは僕が竜二に対して感じていた事とまったく同じ思いだったからだ。
「俺、黙ってても初音が何を考えてるか大体分かったし、なんとなく不機嫌な時も分かった。
お前がつらそうにしてる時は助けてやりたいと思ったし、自分はきっとそのために生まれてきたんだと思ってた」
同じだ。僕が竜二に対して思っていた事と全部同じだ。
それが分かった時、僕はある重大な事に気づいたのだった。
僕はその時、人を好きになるという事がどういう事なのか初めて分かったような気がした。
『やっと見つけた』
好きな人にめぐり会った時、人は誰でもそう思うものなんだ。
そしてめぐり会う前からずっとその人を探していたような気がするものなんだ。きっとそれが、恋というやつなんだ。
「人は、自分を好きになってくれる人と一緒にいた方が幸せなんだ。何かの本にそう書いてあった」
「…」
「俺、1番になれなくてもいいんだ。初音にとって2番目の存在で構わないから…ずっと友達でいてほしいんだ」
僕の胸に強烈な痛みが走った。それは自分が彼を傷つけていた事に気づいたからだった。
僕は竜二が他の人ばかり見つめている事にいつも傷付いていた。
そして時には友達をないがしろにする彼に腹を立てたりもした。でも、僕のやってきた事は竜二のやってきた事と同じだったんだ。
誠が僕を見つめている時、僕は竜二だけを見つめていた。そして誠の視線にまったく気づこうともしなかった。
僕はいつも自分の事ばかり考えて、竜二の事ばかり見つめて…そばにいてくれる友達の事を振り返ろうとはしなかった。
誠はいつも控え目だった。学校で一緒にいる時も、放課後皆で遊ぶ時も、絶対前に出ようとはしない人だった。
そして彼は最後まで控え目だった。彼は僕に多くを望まなかったし、自分の気持ちを押し付けるような事もしなかった。
「ずっと俺のそばにいれば、初音は幸せになれるかもしれないぞ」
伏し目がちだった彼が、そう言って顔を上げる気配がした。控え目な彼がわずかに自己主張をしたのはこの時だけだった。
だいぶ暗くなった部屋の中でそっと彼を見つめると、誠はすぐに視線を落として僕と目を合わせないようにした。
午後8時になった時、僕は帰宅するために彼の家を出た。その時空は真っ黒になっていた。
誠は僕を見送るために一緒に外へ出てきてくれた。彼は地下鉄駅まで一緒に行くと言ってくれたけど、僕は1人で大丈夫だと答えた。
彼と一緒に駅前通りへ出るまで、僕らは決して目を合わせなかった。立ち並ぶ飲食店のネオンが見えてくると、僕らのお別れの時がやってきた。
「気をつけて帰るんだぞ」
誠は腕組みしながら震える声でそう言った。彼の顔は黄色いネオンで照らされていた。
「もう平気だから、家に入って」
僕はそう言った後駅へ向かって歩き出した。歩道の上の雪は若干凍っていた。
もう強い風が吹く事はなかったけど、夜になって気温はかなり低下していた。
道路を走る車は、凍りついた地面の上をノロノロと走り続けていた。
僕はたった1人で肩をすぼめて歩いた。でも20メートルぐらい前へ進んだ時、背中に突き刺さる視線を感じてふと振り返った。
すると、20メートル先に誠の姿があった。まだ制服姿の彼は、相変わらず黄色いネオンで照らされていた。
今ならちゃんとその視線に気づく事ができるのに、これまで僕はどうして彼の思いを分かってあげられなかったんだろう。
「寒いから、もう家に入って!」
僕は寒そうに震える彼にそう言った。誠は大きく1つ頷いたけど、まだそこを動こうとはしなかった。
でもその時の僕には彼を帰らせる方法がちゃんと分かっていた。
「明日の帰り、一緒にアイスクリームを食べようね!」
僕がそう言うと、誠が一瞬にっこり微笑んだ。その後僕は、彼の笑顔をもう一度見たいと思った。
「ずっとずっと、仲良くしようね!」
誠は両手に白い息を吹きかけ、もう一度目尻を下げて笑った。僕が何十回も手を振ると、誠はやっと安心したように家へ戻っていった。
僕はしっかりと彼の背中を見送り、それからまた駅へ向かって歩き始めた。
外の空気は冷たかったけど、僕の頬はポカポカに温まっていた。