7.
僕はどちらかというとリアリストで、科学で証明できない事は信じないタイプの人間だった。
でもたまたま早く帰ったあの日にいきなりあんな物を発見するなんて…
あの日の僕は、何かに導かれて早めの帰宅をしたとしか思えない。
ソファーに寝転がって目を閉じると、いつの間にか眠ってしまったらしい。
そんな僕を叩き起こしたのは母さんからの電話だった。
プルルル…プルルル…
最初は意識の遠い所で微かな電子音が聞こえた。その時僕はまだ半分眠っていて、その音を目覚まし時計のアラームと勘違いしていた。
でも5回、6回、とその音が耳に響くと、それが電話の鳴る音である事にようやく気がついた。
その音に反応して目を開けた時、ベランダの外はまだ十分に明るかった。
僕は部屋の中へ侵入してくる太陽に目を細め、寝転がったままテーブルの上に手を伸ばして電話機を探した。
やがてコードレスの受話器を耳に当てると、そこから聞こえる母さんの高い声が僕の鼓膜を揺らした。
「初音 (はつね) なの?あんたがいて良かったわ。悪いけど、ちょっと母さんの部屋へ行って探し物をしてくれる?」
僕はそう言われ、しかたなく起き上がった。
そしてソファーの裏側にある茶色いドアを開け、電話の受話器を耳に当てながら母さんの部屋へと入っていったのだった。
寝起きの頭が少しずつはっきりしてくると、母さんが職場から電話をかけてきている事がすぐに分かった。
僕の母さんは不動産屋で経理の仕事をしている。
受話器の向こうからは母さんの声の他に電話の鳴る音や他の人の話し声が小さく聞こえてきた。
「母さんの机の引き出しを開けて名刺を探してほしいの。Y 建設の名刺よ」
「分かった」
僕は日当たりの悪い部屋で母さんと話しながら窓際に置かれた机の引き出しを1番上から開けてみた。
でもそこに名刺らしき物は見当たらず、続いてすぐに2番目の引き出しを開けてみた。
「見つかりそう?」
「1番上の引き出しには入ってなかった」
「必ずどこかにあるはずだから、よく探してね。その名刺に書いてある電話番号を知りたいの」
「ふぅん。そうなの?」
「名刺が見つからないと困っちゃうのよ」
「待って。今探すから」
僕は引き出しの中を引っかき回して母さんの言う名刺を探した。2番目の引き出しにはたくさんの名刺が無造作に入れられていた。
「あった。Y 建設の田上さんの名刺だよね?」
「そうそう。それに書いてある電話番号を教えて」
電話が鳴ってから5分後。僕はようやく目的の物を見つけてほっとした。
母さんは僕が読み上げた電話番号をメモして耳元で2度復唱し、夕方6時過ぎには帰るから、と言って電話を切った。
その頃母さんの机の上には何十枚もの名刺が散乱していた。
僕はそこに散らばるすべての名刺をかき集めて角を合わせ、その束を机の引き出しの中へ戻そうとした。
その時、僕はたまたまそれを見つけてしまったんだ。
引き出しの奥に入っていたボロボロな青いノート。そのノートの表紙には、黒いマジックで "初音の成長日記" と書かれていた。
僕は冷たい床の上に腰掛けてそのノートをパラパラとめくってみた。するとそこには母さんの愛情のこもった文字が綴られていた。
6月4日 曇り
今日のお昼頃、初音と2人で公園へ出かけた。
私は彼に黒いティーシャツを着せようとしたけど、初音はあっさりとそれを拒んだ。
彼はどうやら赤や黄色などの明るい色が好みらしい。私が赤いティーシャツを着せてやると、彼はとても満足そうに微笑んでいた。
私たちは公園へ向かう途中で主人と散歩中の犬と出くわした。
あれはなんという種類の犬なんだろう。あの犬は大きくて、真っ黒で、とっても強そうな顔つきをしていた。
初音はそれまでご機嫌だったのに、犬を見た途端私にしがみ付いて泣き出してしまった。
彼は犬よりも大きな声でワンワンと長らく泣き続けた。
きっとあんなに大きな犬を見るのが初めてだったからすごく驚いたのだろう。
初音が人見知りする事はよく分かっていたけど、どうやら彼は犬にまで人見知りするようだ。
私は結局公園へ行く事を諦め、いつまでも泣き止まない彼を抱いて家へ引き返す事になってしまった。
それは母さんの子育て日記だった。
小さい頃の自分の様子を知るのはなんとなく気恥ずかしかったけど、僕はしばらく黙ってその日記を読みふけった。
母さんは僕がお腹にいる時から長い間その日記をつけていたようだった。
竜二と心が離れて以来時々孤独を感じていた僕は、母さんの文字を目で追っていくうちに自分は1人きりではないという事を理解するようになっていった。
そして僕は、例のページを見つけた。
日記の中のそのページには、文字がぎっしり詰まっていた。それは僕がまだ2歳だった頃に書かれたもののようだった。
9月12日 晴れ
今日、隣の奥さんに誘われてよく当たるという占い師の所へ行った。私は彼女に自分ではなく初音の事を占ってもらう事にした。
頭に黒いスカーフをかぶった怪しげな占い師は、とても興味深い事を私に語った。
彼女いわく、初音の前世は女だったらしい。
初音は前世でつらい恋をした。彼は愛する人を別の女の人に取られて失ってしまったのだ。
その時初音はこう思った。
『もうこんなにつらい思いをするのは嫌だから、この次生まれてくる時は男になりたい。そうすれば、愛する人とずっと友達でいられるから』
前世の初音は強くそう願い、今は男として生きている。
これはちょっと嘘っぽい話に聞こえるかもしれないけど、私はそうは思わなかった。彼の母親である私にとって、それはすごく頷ける話だったからだ。
妊娠中産婦人科のお医者様は私のお腹にいる子を女の子だと断言していた。
だから私は彼が生まれてくるまで女の子の名前しか考えていなかった。そして生まれてきたのが男の子だと知った時はすごく驚いた。
彼はもしかして生まれる直前まで女の子だったのかもしれない。彼は生まれ落ちる瞬間に自分の強い意志で男の子へと変身したのかもしれない。
そういえば私が彼の名前を初音と命名した時、周囲の人たちは女みたいな名前だからやめろと言って全員反対したんだっけ。
それでも私は譲らなかったけど、あの時私が彼に女の子のような名前を与えたのは何かの暗示だったのかもしれない。
初音という名前には深い意味がある。
結婚10年目にしてやっと子供を身ごもった時、私はすごく嬉しかった。
産婦人科へ行って初めてお腹の子の心臓の音を聞いた時は、本当に幸せな気持ちになれた。
初めて聞いた彼の心臓の音は私にとって喜びの音だった。だから彼を初音と名づけたのだ。
私の大事な初音には絶対幸せになってほしいと思う。彼にはちゃんと男としての幸せをつかんでもらいたいと思う。
彼はいつか前世で愛した人にめぐり会う事ができるのだろうか。
もしそうだとしたら、今度はその人と一生仲のいい友達でいてほしいと思う。
きっと彼はそのために男として生まれてきたのだから。
何、これ?
僕はその日記を読んだ時、手が震えて急に動悸が激しくなった。
心臓の動きがあまりに激しくて、息をする事さえ苦しくなった。
僕はどちらかというとリアリストで、科学で証明できない事は信じないタイプの人間だった。
でもその時僕はある1つの事を思い出していた。
『やっと見つけた』
僕は竜二に初めて会った時、たしかにそう思ったんだ。
占いなんて嘘っぱちだ。そうは思いながらも、占い師の語った言葉は考えれば考えるほどつじつまが合った。
僕は竜二と話していると、時々彼が言葉を発する前に何を言おうとしているのか分かってしまう事があった。
休みの日に竜二と会う時は彼がどんな洋服を着てくるか大体想像がついたし、竜二が彼女の事を考えている時にはいつもその事に気づいてしまった。
それまでの僕は自分が竜二の事をよく理解しているからそういう事が分かるんだと思っていた。
でももしかしてその考えは少し違っていたのかもしれない。
僕はずっと前から竜二の事を知っていたから…だから彼の事がなんでも手に取るように分かったのかもしれない。
本当は、自分の気持ちに薄々気づいていた。
竜二に対する僕の思いはどこかおかしかった。
僕はずっと前から彼の事を好きだったのかもしれない。そして今でも彼の事を好きなのかもしれない。
僕が竜二の幸せを喜べないのは、もしかして嫉妬心がそうする事を邪魔しているからなのかもしれない。
僕は彼に会うために生まれてきて、今までずっと彼を探し求めていたのかもしれない。