14.

 僕がパパの上になって腰を振っていた時、突然僕らに近づく足音が聞こえた。
やがて背中の後ろに人の気配を感じた。でもその時にはもう何もかもが遅かった。
ハッとして振り返ろうとした時、誰かの手が強い力で僕の髪を掴んだ。頭頂部に激痛が走り、目に映るすべての景色が歪んだ。
気づくと僕の体は床の上に叩き付けられていた。
腰を打って顔をしかめ、ゆっくりと目線を上げるとそこには黒いロングドレスを着たママの姿があった。
赤く光る爪が目の前に見えた後、今度は左の頬に鋭い痛みが走った。
僕はママに平手打ちを浴びせられ、それと同時に彼女の長い爪が頬の肉に食い込んだのだ。
「この、ドロボウ!」
ヒステリックなママの声が部屋中に響き渡り、彼女の手が何度も何度も僕の頬を叩いた。
僕は床の上にうずくまり、頭を抱えて必死に自分の身を守ろうとした。 何しろママはものすごい剣幕で、僕は彼女に殺されるかと思ったのだ。
ママが僕を叩くたびに彼女の長い髪が揺れ動いた。そのうちそれが僕に襲い掛かり、ママの髪で首を絞められそうな気がしていた。
「あんたはあの人にそっくりだわ。陰湿で、バカで、まるで薄汚い野良犬と同じよ!」
ママの怒声が頭の上に降り注がれた。
"あの人" というのが僕の本当のパパをさしているという事は、説明されなくてもすぐに分かった。
「あんたなんか生むんじゃなかった。あんたさえいなければ、私はもっと自由でいられたのに…」
僕がママの本音を聞かされたのはその時が初めてだった。
彼女にとってやっぱり僕は余計な者でしかなかったのだ。
そんな事は昔から分かっていた。きっと生まれた時から分かっていた。 でもママの口からはっきりその事実を宣告されると、僕はすごく傷付いた。
突然膝がガクガクと震え始めた。そして知らないうちに2つの目から熱い感情が溢れ出した。

 「冴子さん、どうして帰ってきたの?」
それはまるで世間話をするような口調だった。パパがママを名前で呼ぶのを僕はこの時初めて聞いた。
パパはついさっきまで上ずった声で叫び続けていたのに、修羅場になると突然妙に冷静なそぶりを見せた。
裸のままでソファーに腰掛けるパパの姿が涙の向こうに浮かび上がった。
彼はゆっくりとした動作で足を組み、堂々とした様子で興奮気味なママを見つめていた。
パパはこんな時でも目の輝きを失わず、とても穏やかな笑顔を浮かべていた。
「帰ってくるなら電話の1本ぐらいくれよ。そうすればこんなひどい事にはならなかったのに」
その後はパパとママだけの話し合いになった。 すると床を這いつくばっている僕はまるで空気に溶けたかのように存在感を失った。
テレビを背にして立っていたママは、鬼のように怖い顔をしていた。
目をつり上げて眉間にシワを寄せる彼女は、とても醜く僕の目に映った。
そして2人の声が僕の頭の上を何度も飛び交った。パパの声は冷静そのものだった。でもママの声は終始震えていた。

 「ここは私の家よ!いつ帰ってこようと私の勝手だわ」
「半分は俺の家だよ。家賃を折半してるんだからな」
「ふざけないでよ。私が稼いだお金で暮らしてるくせに」
「俺はホストを続けると言ったはずだ。俺の年収がいくらか知ってるだろう?それを捨てろと迫ったのは君の方じゃないか」
「夫にホストをやらせるわけにはいかないわ!ホストなんて、女と寝るのが仕事なんだから」
「そうかもね。俺と冴子さんも出会ってすぐに寝たしね」
ママは両手で拳を握り、怖い目をしてパパを睨み付けていた。
さっきまで恥ずかしそうに雲に隠れていた太陽の光が、そんな醜いママの姿をはっきりと僕の目に焼き付けた。
僕は2人の声を聞く事に耐えられず、両手ですぐに耳を塞いだ。僕はたしかにそこに存在していたのだ。
熱い涙が頬を流れ、その雫が足元に転がっているパパのジーンズの上に零れ落ちた。 色褪せたジーンズには僕の涙が染み入るたびに紺色の水玉模様が描かれていった。
水玉模様の向こうには薄いストッキングに包まれたママのつま先が見えた。 彼女の小さな足の爪は、やはり赤いマニキュアで飾られていた。
「丈二、あなたとはもう終わりよ。明日にでも離婚届を出すわ。たっぷり慰謝料を請求させてもらうから、覚悟しておいて」
もう2人の声を聞きたくなんかなかったのに、いくら耳を塞いでも無駄だった。きつく目を閉じても、結果は同じだった。 ママの声は少し曇って聞こえたけど、それでもしっかりと僕の鼓膜を揺らした。
彼女の口にした離婚という言葉が僕に強い恐怖を与えていた。パパとママが離婚したら、僕はもう生きてはいけないと思った。
だって、2人が別れたら僕とパパは赤の他人になってしまう。
僕はパパと離れるのがどうしても嫌だった。でもそれ以上にママと2人の暮らしに戻る事がすごく怖かった。

 「いきなり帰ってくるのはルール違反だよ。 俺が突然雅巳くんを連れて君の店に乗り込んだらどうする?そんな事をしたら、君は困るだろう?」
パパがそんなふうに言った時、ママの声のトーンが明らかに変わった。
「…私を脅すつもり?」
彼女はさっきよりもひどく声を震わせていた。 さっきまでは怒りで声を震わせていた様子だったけど、今度は怯えているような震えに変わった。
「俺たちの関係を壊したのは君の方だって言ってるだけだよ。 俺は最初から家の中だけの夫だった。それに雅巳くんは家の中だけの息子だった。 俺たちは君の都合のいい時だけそばにいればそれで良かったんだろう?」
「何よそれ」
「ここへきてからの俺は冴子さんの専属ホストみたいなものだったし、その役割は果たしてきたつもりだよ。 君と一緒にいる時は君だけに尽くしてきた。俺が1度でも冴子さんに逆らった事がある? 君が抱いてくれと言えばそうしたし、ずっと家にこもってろと言われればその言い付けを守った。 でも君に雅巳くんと寝るなと言われた覚えはまったくないよ」
「そんなの屁理屈よ!」
「いったい何が不満なの? 冴子さんは外では独身を気取って何人もいいスポンサーを捕まえてるじゃないか。 俺は君がどうやって稼ごうが知った事じゃないし、君が誰と寝ようが文句を言った事は1度もない。 雅巳くんだって君の足かせになるような事は絶対にしなかったはずだ。 だったら俺たちが君のいない時に何をしようと勝手じゃないか。 こんな時間に突然帰ってきて、俺たちのテリトリーに足を踏み入れた君が全部いけないんだよ。 俺に慰謝料を請求するっていうならやってみたら? そのかわり俺も冴子さんのスポンサーに対して同じ事をするぞ。夫の俺にはその権利があるんだからな」
「やっぱり脅しじゃないの!」
「それとも夫が息子に手を付けたと言って俺を訴える? でも雅巳くんの姿を見たら世間の人は誰でも俺のした事に納得するだろうね。 この坊やは君よりずっと若くて綺麗でかわいいもん。 愛人にもらった金で家族を養って偉そうにしてるような女と彼とじゃとても比べ物にならない。 誰だって雅巳くんの方を選ぶに決まってるよ」

 パパは冷静に確実にママを追い詰めていった。彼は淡々と恐ろしい事を語ってママを黙らせたのだ。
広いリビングの中に不穏な空気が流れていた。
僕はその空気を前にも味わった事があるような気がしていた。なんとなくだけど、僕の意識のどこかに淀んだ空気を浴びた記憶が残されていた。
後から気づいた事だけど、それはきっと僕が赤ん坊の時の記憶だった。
ママは僕を生んだ後すぐに本当のパパと別れたと言っていた。 恐らくその時、2人の間にこれと似たような修羅場があったのだ。
赤ん坊だった僕は、その時も震えて泣きじゃくっていたに違いなかった。

 やがて曇った足音が遠くへ去っていった。
それはママの足音に違いなかった。僕は耳を塞いで、涙を流して、遠ざかっていく小さな足音を漠然と聞いていた。
「雅巳くん、もう大丈夫だよ」
その後僕のすぐそばでパパの声がした。
彼の細い腕が床に座り込んでいる僕を正面から抱きしめてくれた。パパの広い胸に顔を埋めると、もう何も見えなくなった。僕はただひたすらパパの胸で泣く事しかできなかった。
ベランダの向こうから吹く風が、急にすごく冷たく感じた。
震える僕の体がフワッと宙に浮いたのは、パパが僕を抱き上げて歩き始めたからだった。
外の風は冷たかったけど、パパの胸はとても温かかった。僕はパパが歩くたびに心地よい揺れを感じながら必死に彼の肩につかまっていた。
僕はもう考える力をなくしていた。そのせいか、その後の記憶はほとんど残っていない。
でもパパが僕を大きなベッドへ運んでくれた事はちゃんと覚えている。
彼が一晩中僕を抱きしめていてくれた事も、ちゃんと記憶に残っている。