15.
ママはそのまま家を出て行き、その後しばらくパパと2人の静かな暮らしが続いた。
ママがいなくなっても僕たち2人の暮らしにほとんど変化はなかった。
ただ以前と大きく違っていたのは、僕たちが朝まで同じベッドで眠るようになった事だった。
ママと3人で暮らしていた頃、パパは夜中に1度僕を抱いた後夫婦の寝室へ戻っていた。
でもママが出て行った後はそんな事をする必要がなくなったというわけだった。
パパは相変わらず仕事のペースを崩す事がなかった。
彼は僕が学校から帰った後しばらく一緒にいてくれたけど、午後8時を過ぎるといつも黙って仕事部屋へ消えていった。
僕の方はその時間になっても勉強する気が起きず、彼が去ったリビングでテレビを見ながらぼんやりする時間が続いた。
僕は籐のソファーの感触を楽しめなくなっていた。
それでも仕方なくソファーに座るけど、そうするとどうしてもママを交えた修羅場の時の事が頭にチラついた。
彼女の赤い爪が目の前に見えた瞬間の事は、僕の脳裏に焼き付いていた。
ママに叩かれたのはあの時が初めてだった。僕の頬にはしばらく引っかき傷が残されていたけど、それも数日で消えてなくなった。
毎朝鏡を見て頬の傷が薄くなっていくのを確認するたびに胸に小さく痛みを感じた。
ママが家を出て行った後はこの先どうなるのか分からなくて、不安で不安でたまらなかった。
僕とパパはあの日以来ママの話を避けていた。今後僕たちがどうなるのかという事も、一切話し合う事はなかった。
僕たち2人の先行きは不透明だったから、お互いその事についてどうこう言えるものでもなかったのだ。
1人でぼんやりしていると、いつもあっという間に時間が経った。
考えるべき事はたくさんあったのに、何も考えないうちに夜は更けていった。
リビングの大きなテレビが例の安っぽいドラマを放映し始めると、眠りに着く時間がやってきた事に気づいて僕はいつも立ち上がった。
寝る前にパパの仕事部屋へ立ち寄ると、そこにはいつもと変わらぬ風景があった。
明かりのない部屋の奥にこじんまりした机が存在し、その上に陣取っているノートパソコンが白い光を放っていた。
パパはその光と見つめ合い、カチャカチャと音をたててキーボードを操作していた。
「パパ…」
廊下に立ってパパに声を掛けると、彼はすぐに仕事をやめる仕草を見せた。
以前はもっと遅くまで仕事をしていたのに、その頃彼は僕の眠る時間に合わせて早めに仕事を切り上げるようになっていた。
パパは日中ママの相手をする必要がなくなったので、僕が学校へ行っている間集中的に仕事をしているようだった。
そういうわけで、必然的に夜の仕事の時間が減っていたのだ。
彼がパソコンの電源を切ると、ブラウザが真っ黒になって闇に溶けていった。
そして彼は立ち上がり、僕の手を引いて毎晩大きなベッドへ連れて行ってくれるのだった。
僕たちは同じベッドに入るとすぐに抱き合った。
パパは僕の部屋へくると必ずテレビの電源を入れた。
明かりを点けない部屋の中はとても暗かったけど、テレビの光がベッドで抱き合う僕たちをちょうどいい具合に照らしてくれた。
テレビの音量はかなり低くしていたので、僕たちの会話は誰にも邪魔される事がなかった。
僕のベッドには枕が2つ並んで置かれていた。右の枕はパパ専用で、左の枕は僕が使っていた。
僕らはいずれ愛し合うのだけど、急いでお互いを求め合う事はしなくなっていた。
パパの唇はいつもすぐそばにあった。その唇は気まぐれに僕にキスをしたり、首筋を強く吸って愛の証しを残してくれたりもした。
テレビの放つ光はパパの冷たい目を輝かせ、白い頬を様々な色に染めていた。
6月の夜は暖かかった。そしてパパの胸も温かかった。
「すぐに抱いてほしい?」
パパの掠れた声が小さくそう言った。本当は頷きたかったけど、僕は自制して首を振った。
「ギリギリまで我慢する」
「どうして?」
「我慢できなくなった時に、パパにおねだりしたいから」
僕がそんなふうに言うとパパはすぐに目の表情を和らげた。彼にぎゅっと抱きしめてもらうと、僕はすごく安心した。
2人の腰がぶつかり合った時、パパはきっと僕の股間の膨らみに気づいていた。
「今のセリフ、そのまま小説に使ってもいい?」
「いいよ」
「ありがとう」
パパはそう言って僕の頬にキスをしてくれた。2週間前ママに叩かれた左の頬は、それから何度もパパにキスをされていた。
彼と触れ合っている間はすべての不安を忘れる事ができた。
布団に包まって温まるよりも、パパの腕に包まれて熱くなりたかった。
本当は枕なんて1つで十分だった。彼の腕を枕にして、永遠に眠っていたかった。
「俺、金を稼ぐためにホストになったって言ったけど、本当はそれ以外にも目的があったんだ」
パパは枕に頬を埋めて突然そう言った。僕はもちろんその話に興味を持った。僕もパパの真似をして自分専用の枕に頬を埋め、彼の話に耳を傾けた。
静かなテレビは不定期に様々な色の光を放ち、パパの綺麗な顔を不定期にその色で照らした。
「ホストをやってると、客や仲間からいろんなおもしろい話が聞けるんだ。
俺はその話を元にして小説を書きたかったんだよ。
だから半分は金のために、もう半分は小説のネタ探しのためにホストをやってたんだ」
その話は初耳だった。
僕にはパパの言う事がなんとなく理解できた。人は誰でも1つぐらいは小説になりそうなエピソードを持っているものなのだろう。
「でもホストをやってて1番良かった事は、君のママを通じて雅巳くんに出会えた事だよ」
やけに真剣な口調でそう言われると、僕はすごく照れてしまった。
彼の口から久しぶりにママの名が語られた事を、すっかり忘れてしまうほどに。
「パパ…今のセリフ、そのまま小説に使って」
枕に埋もれる頬が急に熱くなっていくのがよく分かった。
彼を真似てそう言うと、パパは返事をする代わりにそっと僕の耳に囁いた。
「ねぇ、そろそろおねだりしてくれない?」