16.
6月に入って2度目の日曜日。この日の朝、僕はパパと2人で出かけた。
パパの運転するRV 車の助手席は、すでに僕の物になっていた。
空は少し曇っていたけど、雨の心配はなさそうだった。
夏が近づいて緑の木の葉は輝いていた。そして誰かの家の庭にはママのマニキュアを思わせる真っ赤な色の花が咲いていた。
パパは家の中では恋人であり、外では若く美しい父親を演じてくれた。
「パパ、どこへ行くの?」
僕はハンドルを握る彼の横顔を見てそう言った。
パパの真っ白な頬にそっと手を伸ばすと、柔らかい感触が指先に伝わった。
「買い物に行こうと思ってるんだ。俺は今まで全然父親らしい事をしてこなかったけど、今日はいい物を買ってあげるよ」
「本当?」
「買い物が済んだら、何かおいしい物を食べようね」
赤信号の手前でブレーキを踏んだ時、パパが小さくそう言った。
僕の手が彼の長すぎる前髪を横に払うと、その奥には優しい目が存在していた。
僕たちは30分程度ドライブした後家電量販店の駐車場に車を停めて店の中へ入っていった。
パパは外へ出る時には必ずスーツを着る事にしていて、この日も例外ではなかった。
パパが店の中を歩くと、売り場の従業員も通りすがりの客も皆が彼に注目した。
ビシッとスーツを着込み、背筋を伸ばして歩くその姿はたしかに人目を引いた。
薄っぺらなティーシャツとカーゴパンツを身に着けた僕は、彼のオーラに少し気後れしていた。
店の中を照らす眩しい光がパパの茶色い髪を輝かせた。
彼はしっかりとした目的を持ってどこかの売り場へ足を進めているようだった。
壁際に並ぶテレビは海外のサッカー中継を映していた。
そして店内には頭が痛くなりそうなほどの大音量で有線放送が流されていた。
僕はその音に顔をしかめながらずっとずっとパパの後ろを歩いていった。
やがて彼がある売り場で立ち止まると、それがあまりに急だったので僕の体はパパの背中にぶつかった。
「雅巳くん、どれがいい?」
背骨にぶつかった鼻を右手の指でそっとさすると、パパが僕を振り返ってにっこり微笑みながらそう言った。
彼の背後には横に長い棚が続いていて、そこにはいろんな種類の携帯電話が並べられていた。
パパは最新機種の携帯電話を買って僕にプレゼントしてくれた。
僕は携帯電話を持つのが初めてだったから、その時は本当に嬉しかった。
再び店の中を歩いて駐車場へ抜ける細い通路へ出た時、そこに誰もいない事に気づいて彼に抱きついた。
その時僕の右手には真っ黒な携帯電話が握られていた。
「パパ、ありがとう」
薄暗い通路はとても静かだった。
僕は一瞬だけパパに抱きついてすぐに離れようとしたのに、彼はそれを許してくれなかった。
この時僕は今までにないほど強く彼に抱きしめられた。
胸が苦しくなるほどに、骨が折れてしまいそうなほどに、強く強く抱きしめられた。
パパのジャケットのボタンが胸に押し付けられると、軽い痛みを感じて思わず奥歯を噛んだ。
「雅巳くん、いつでも俺に電話してね。2人きりで…秘密の話をしよう」
内緒話のように小さな声が、僕の耳をくすぐった。
僕はその時すごく嫌な予感がした。
彼を跳ね飛ばすようにして突き放すと、手ぶらになったパパが僅かに輝く目で僕をぼんやりと見つめた。
薄暗く静かな通路に一瞬不穏な空気が流れた。その淀んだ空気は僕が今まで浴びた事のない種類のものだった。
パパが俯くと、長すぎる前髪が彼の目を覆い隠した。
ツヤのある茶色の髪と真っ白な頬が、すごく遠く感じた。
「パパ、もしかしてどこかへ行っちゃうの?」
不安を率直に口に出すと、彼が僅かに顔を上げた。でも前髪の奥に隠された目は僕にはよく見えなかった。
「ねぇ、答えて!僕を置いてどこかへ行っちゃうの?」
僕の叫びがコンクリートの壁に反射して狭い通路に響き渡った。
僕はその返事が返ってくる前にもう一度パパの広い胸に抱きついた。
「そんなの嫌だよ。絶対どこにも行かないで。もうパパがいないと生きられない。パパがいないと僕は1人ぼっちになっちゃうよ」
混乱した僕は涙声でそう訴えた。
パパの高そうなジャケットは少しずつ少しずつ僕の涙を吸い取っていった。
彼はもう強く抱きしめてくれるような事はなかった。それでも力なく両手で僕を抱き寄せてくれた。
「実は今日、君のママと話す約束をしてるんだ。
本当は3日前から決まってた事なんだけど、雅巳くんにはなかなか言えなかった。
冴子さんとは午後から会う約束をしてる。もしも嫌だったら君は話し合いに出席しなくてもいいよ」
パパは蚊の鳴くような声でそう言った。
夢中で抱きつく彼の胸はとても温かかった。でもそれはきっと僕の涙の温もりだった。
「もしも君のママが雅巳くんの親権を主張したら俺に勝ち目はない。
最後まで君を手に入れるためにがんばるつもりでいるけど…」
現実的な言葉を浴びせられると、急に体がガタガタと震えた。
あの修羅場を共有したママと2人で暮らす事は、僕にとって地獄以外の何物でもなかった。
僕は買ったばかりの携帯電話をあっさりと手放した。するとそれがコンクリートの床に落下して大きく音をたてた。
パパと携帯電話を通じて話すようになるのはどうしても嫌だった。
僕はいつでも掠れた声で耳をくすぐってほしかったのだ。