17.
ママとの待ち合わせ場所はシティーホテルのラウンジだった。
そこは一面ガラス張りで白い光に照らされていた。
奥にはグランドピアノが置かれていて、真っ黒なそれは静かな曲を自動演奏していた。
ラウンジには四角い木のテーブルがポツリポツリと2列に並べられ、その間隔は意識して大声で話さなければ隣のテーブルの会話が聞き取れないほどに空けられていた。
別れ話というものは誰にも知られずひっそりとするものだ。そういう意味ではそこは両親の話し合いには最適の場所だった。
ラウンジの入口に立った時、パパが僕の両手を軽く握って優しく微笑んだ。でも僕はママに会うのが少し怖くて、うまく笑い返す事ができなかった。
「心配いらないよ。俺は今まで欲しい物は必ず手に入れてきたんだから」
パパが微笑んだのは一瞬だけだった。それを言う時彼の目はすでに冷たく凍り付いていた。
僕はその冷たい目に賭けるしかなかった。
もしもパパとママが僕の親権をめぐって争った時、きっとその目は僕の味方をしてくれる。何もできない僕はそう信じるしかなかったのだ。
パパは明るいラウンジの中をキョロキョロと見回した後、空色のカーペットを踏みしめてその奥へと歩き始めた。
彼は足音もたてず、しっかりとした足取りで歩を進めた。
僕はママに会うのがやっぱり怖かったけど、それでもおぼつかない足取りでパパの後に続いた。
白いブラウスを着たママはラウンジの1番奥のテーブルにいた。その横に見慣れない男の人が座っていたので、僕は一瞬ドキッとした。
その人はパパより10歳以上年上に見えた。つまりママとはよく釣り合う年齢の人に思えた。
ジェルで固めた短い黒髪が光沢を放ち、薄い口ひげはグレーに近い色だった。
その人も高そうなスーツを着ていたけど、大人の雰囲気をかもし出す彼と若さ溢れるパパとでは印象が180度違っていた。
パパのような人に懲りたママは、今度は大人の男の人を手に入れたのかと瞬間的に思った。
「滝沢丈二さんと…そちらは雅巳くんですね?どうぞお掛けください」
2人のいるテーブルへ近づくと、見知らぬその人が軽く笑顔を浮かべて僕とパパにそう言った。
1つのテーブルに集まった4人の中で最初に口を利いたのは口ひげの彼だった。
パパは僕を促してママの正面に座らせた。そして自分はママの連れてきた人の前にそっと腰掛けた。
僕はすごく緊張してママの顔を見る事ができず、テーブルの下でパパの手を強く握り締めた。
すると意外にもママの方から穏やかな口調で僕に話し掛けてきた。
「まぁちゃん、元気だった?」
恐る恐る正面に顔を向けると、そこにはママの柔和な笑顔があった。
久しぶりに見る彼女はとても綺麗だった。
外の光はママの顔の小ジワを容赦なく照らしたけど、それと同時に真っ赤な唇や長い髪も照らしていた。
表情がとても柔らかくて、濡れた唇は少し光っていて…その日のママは本当に美しかった。
黙って頷くと、若いウエートレスが僕のところへ透明なグラスに入ったアイスココアを運んできた。
そしてパパの目の前には四角いカップに入ったホットコーヒーが置かれた。
それはママがあらかじめ僕たちの好きなものを頼んでおいてくれたからに違いなかった。
「申し遅れましたが、私は滝沢冴子さんの弁護士で田中といいます」
落ち着いた口調で話す口ひげの男が自分の身分を明かしてパパにサッと名刺を手渡した。
パパは何も言わずにそれを受け取り、しばらくそこに書かれた文字を目で追いかけているようだった。
「早速ですが、滝沢冴子さんはあなたとの離婚を望んでいます。それをご了承いただけますか?」
弁護士の口調は終始落ち着いていた。
ママは彼にすべてを任せているらしく、何も言わずに外の景色を眺めているようだった。
ホテルの庭には丸くて小さな噴水が設置されていて、その中央から空に向かって大量の水が噴き出していた。
パパは弁護士の言う事に軽く頷いた。
彼は硬い表情を崩さず、風変わりな四角いカップに入ったコーヒーを少しだけ喉へ流し込んだ。
「では、お互いに慰謝料はなしという事でよろしいですか?」
弁護士がパパを見つめてそう言った時、彼の輝く目が一瞬ママに向けられた。
でもママはその視線に気づく事もなく外の景色を眺めていた。
「彼女がそれでいいなら、俺の方は一向に構いません」
「あなたの方から冴子さんに慰謝料を請求するという事もありませんね?」
「はい。そんなつもりはありません」
パパは四角いカップを手放し、両手で邪魔くさそうに長い前髪をかき上げた。
こんな時でも彼は美しかった。輝く目も、白い肌も、そんな仕草も、どれもがすべて美しかった。
きっとこの時パパも気づいていた。
ママは息子に夫を寝取られた事実を弁護士に話してはいなかったのだ。
「では次に、雅巳くんの事ですが…」
弁護士の口から僕の名前が出ると、緊張が頂点に達した。
高鳴る心臓の音があまりにも大きくて皆に聞こえてしまうのではないかと思った。
でもその心配は自動演奏を続けるグランドピアノがなんとか吹き飛ばしてくれた。
落ち着き払った弁護士が右手の人差し指で口ひげをそっと撫でた。その後彼は少し身を乗り出してパパに大事な事を尋ねた。
「あなたは、雅巳くんの親権を主張しますか?」
僕はパパを信じていた。本当に、心から信頼していた。
でも彼がそれに答える前に一呼吸置いた時はその間が怖くてたまらなかった。
「はい。俺は彼を引き取ります」
掠れた声がそう言った時、僕はすごく安堵した。でも僕が実際に晴れやかな気持ちになれたのはほんの一瞬だけだった。
「雅巳くんの事について、彼女はどう言ってるんですか?」
パパの声とピアノの音が調和した。彼が弁護士に質問をしたのはその時だけだった。
「冴子さんは雅巳くんの意思を尊重したいと言っています。
雅巳くんがあなたと暮らす事を選択するのなら、親権は主張しないという事です」
自分でもとても意外だったけど、弁護士の口からその事実が語られた時、僕はすごく傷ついた。
ママは僅かに微笑みながら尚も外の景色を見つめていた。
彼女の髪は白く輝いていた。
小さい頃その髪にそっと触れると、ママはいつも怪訝な顔をして僕の手を払い除けた。
彼女に怖い目をして睨まれると、僕はいつも泣きそうになった。
「これから出かけるのに、セットが乱れちゃうじゃない。もうママには触らないで」
そんなふうにきつく言われたのは、小学校2年生ぐらいの時だっただろうか。
僕はそれ以来決してママに触れた事がなかった。時々手をつなぎたいと思っても、彼女の手は遠かった。
ママは同級生のどのお母さんよりも綺麗だった。笑顔がかわいくて、赤い口紅がよく似合って、髪がサラサラで。
僕はそんな彼女と一緒に歩いて皆にママを自慢したかったのに、そうする事は絶対に許されなかった。
僕は小さい頃からいろんな事を我慢してママに嫌われないように精一杯努力してきたつもりだった。
どんなに冷たくされても彼女は世界でたった1人の僕のママだったからだ。
なのに長年続けてきたその努力はすべて水の泡になってしまったのだった。
「絶対パパには触らないで」
こんなふうになるなら、ママはどうして僕にそう言ってくれなかったのだろう。
彼女がそう言ってくれたなら、僕はパパの手を拒んだかもしれないのに。
僕はこれが彼女の自分に対する復讐なのだと思った。
ママは僕がパパと関係を持った事で自由を得たのだ。昔からお荷物だった僕を、あっさりと振り切る事ができたのだ。
結局僕は彼女に一度も愛されないまま捨てられた。
彼女はきっと自分がそうする事で僕が傷つくのをちゃんと知っていたのだ。だからママはこんなにも穏やかだったのだ。
「雅巳くん、君はどう?パパと暮らしたい?それとも、ママと暮らしたい?」
俯く僕の耳に弁護士の落ち着いた声が響いた。
視線の先には青いコースターが置かれ、アイスココアの入ったグラスの外側からその上にいくつもの雫が滴り落ちていた。
僕は一瞬ママと一緒に暮らしたいと言いたい衝動に駆られた。
そうする事が僕を傷つけた彼女に対する唯一の復讐の方法だと分かっていたからだ。
でももちろん僕にその選択肢は残されていなかった。
一時の感情でそんな事を口にしたら、ママと2人の地獄の暮らしが始まってしまう。
そしてパパとは本当に携帯電話を通じて話をするようになってしまう。
そんな事、僕は絶対に嫌だった。
ママはそんな僕の気持ちをすべて読んでいた。だからこそこんなやり方で僕へ復讐したのだ。
外の景色を眺めるママは、本当は自分の明るい未来を見つめていたのかもしれない。
両親が親権を争った時の事を心配した自分がバカみたいに思えた。
この時僕はパパと2人で暮らせる喜びよりもママにあだ討ちされたショックの方が大きくて小さな胸を痛めていた。