18.

 僕とパパがママと暮らしたマンションを出たのは、次の日曜日の午後の事だった。
パパは離婚が成立する前にすでに自分でマンションを購入していた。 でも僕にはそんな事はまったく知らされていなかった。
彼は決して嘘を言わない人だったけど、言わずに済む事はあえて口にしないところがあった。

 家を出る際、僕に悲壮感はまったくなかった。何しろそこで暮らした期間が短かったから、その場所には未練も執着も何もなかった。
僕たちは身の回りの物だけを持って家を出る事にしていた。家具や電化製品はママとの思い出と一緒にすべて置いていく事にしたのだ。
そんな中でただ1つだけ引っかかっていたのが、パパと初めて触れ合ったベッドを残していく事だった。
僕は買って間もないそのベッドを気に入っていたし、パパとの思い出の品として多少の愛着があった。
家を出る直前に自分の部屋へ行って、僕はしばらく思い出のベッドを眺めた。
そこに2つ並んでいたはずの枕は1つだけになっていて、その下には水色のシーツがピンと張られていた。太陽の日差しはベッドの右半分だけをやけに明るく照らしていた。

 「雅巳くん、そろそろ行くよ」
ぼんやりしながらベッドの脇に突っ立っていると、ある時突然パパに後ろから抱きつかれた。
僕はそれまでパパが部屋の中へ入ってきた事にも気づかなかったし、彼が背後に近づく気配もまったく感じなかった。
そういえばパパとの最初の夜もそんなふうだった。
彼はいつも猫のように足音をたてずに歩く。 あの晩彼は静かにこのベッドへ近づいて、マスターベーションに興じる僕を見下ろしていたのだ。
「淋しいの?」
パパは僕をきつく抱きしめ、掠れた声で耳をくすぐった。
「このベッドだけは持っていきたかった」
僕は胸の上にあるパパの腕をぎゅっと掴んでそう言った。すると彼は少し間をおいた後すごく印象に残る言葉を口にしたのだった。
「何かを手に入れるという事は、何かを手放す事と同じなんだよ」
それが家族3人で暮らした家の中でパパが言った最後の言葉となった。
僕はパパを手に入れ、ママを失った。本当は2人とも僕のものにしたかったのに、それはどうしても無理だったのだ。


 僕は引越しの当日までパパの買ったマンションを一度も訪れた事がなかった。
大体彼が新しいマンションの存在を僕に告げたのが引越しの4日前だったから、そんな事をしている時間はなかったのだ。
「きっと気に入るよ」
数日前新しい住まいがどんな所なのかを問い掛けた時、彼は笑顔でたった一言だけそう言った。
僕はパパを信じていたから、その時はそれ以上何も聞いたりしなかった。
RV 車の後部座席に必要最低限の荷物を乗せ、僕たち2人はドライブへ出かけるかのようにすんなりと中古マンションを出た。
サイドミラーに映るマンションの姿がどんどん小さくなっていくのを見つめた時、ようやく何かが終わったという気持ちになった。
「新しい家は雅巳くんの中学校の学区からだいぶ外れるんだ。でも俺がちゃんと毎日送り迎えをしてあげるから、安心して」
車を走らせながら、パパが静かな口調でそう言った。
彼は引越しの前日に少しだけ髪を切っていたので、長い前髪が優しい目を覆い隠すような事はなくなっていた。
パパは引越し当日もスーツを着て家を出ていた。 その拘りはたいしたものだったけど、行く先で掃除をする事などを考えるとそれはあまり合理的とは思えなかった。

 新しいマンションへ辿り着くまでの約1時間、僕とパパはほとんど会話も交わさず車に揺られていた。
車の中から見つめる景色はしばらくすると新鮮なものに変わっていった。
それまで住んでいた所はごく一般的な住宅街だったから、一軒家とマンションとアパートが入り乱れていた。 でも新しい住まいは高級住宅地の真ん中にあったので、その付近へ行くと妙に大きな屋敷が目立つようになった。
1階の車庫に何台もの車が並ぶレンガ造りの家とか、立派な松の木が庭に植えてある日本家屋とか。
車の助手席からぼんやりとそういう家並みを眺めると、自分はその街の住民には相応しくないように思えてならなかった。
「あそこが俺たちの城だよ。これから毎日お空の上で愛し合おう」
パパがそう言って指差したのは、その街の中でも一際目立つ真っ白な高層マンションだった。
それが何階建てなのか知りたくて、目に見える範囲で窓を下から順番に数えてみた。 でもその途中ですぐにその数は分からなくなってしまった。
高層マンションの白い壁は太陽の日差しを浴びて光り輝いていた。
僕はともかくとして、そこはパパが住むにはとても相応しい所のように思えた。


 僕たちは辿り着いたマンションの駐車場に車を停め、まずは荷物を持たずに新しい住まいを見に行く事にした。
マンション1階の玄関ホールから四角いエレベーターに乗ると、パパは細い指で30階のボタンを押した。
彼は何も言わなかったけど、僕らの部屋が最上階である事はすぐに分かった。エレベーターには最高30階までのボタンしか見当たらなかったからだ。
高速エレベーターはあっという間に僕たち2人を新しい住まいへ運んだ。
最上階に着いて音もなくスッとエレベーターのドアが開くと、すぐ目の前に重厚なドアが現れた。
「このフロアは全部俺たちのものだから」
パパがそう言って重そうなドアの鍵を開けた時、僕は少しワクワクした。1つのフロアを全部自分たちで使えるなんて、嬉しくないはずがなかった。
ドアが開くと、目の前に薄暗く真っ直ぐな長い廊下が現れた。
パパは僕の手を引いて白いタイル張りの廊下の上を靴も脱がずに歩き始めた。
廊下の先には2枚目のドアが見えた。僕たち2人はそこへ辿り着く前に適当に靴を脱いでそのへんに投げ飛ばした。

 パパが2枚目のドアを開けると、僕の目は眩しい日差しを受けて幻惑された。
一瞬目の前が真っ暗になった僕は、パパの手を頼りに真っ直ぐ歩き続けた。
そしてガラス張りのリビングの壁に行き当たった時、最初に見た物は遠くまで続く真っ青な空だった。
「すごい…」
僕はガラスに手をついて思わずそうつぶやいた。
そこは本当にお空の上だった。僕はその時、まるで雲に乗っているかのような錯覚に陥った。
真っ青な空はすごく近くにいて、視線の先には空しかなくて、そこではカーテンなんかしなくても誰にも部屋を覗かれる心配はなさそうだった。
目線を落とすと、ついさっきまで車の中から眺めていた大きな家がマッチ箱のようにちっぽけに見えた。
小さなマッチ箱が並ぶ眼下の景色は僕をすごく喜ばせた。
天空に住む僕たちはこうしてずっとマッチ箱の住人を見下ろし続けるのだ。たったそれだけの事が、僕をたまらなく興奮させていた。

 「雅巳くんの部屋もあるよ。行ってみる?」
「うん」
僕はもう一度パパに手を引かれ、リビングを出て新しい自分の部屋へ連れて行かれた。
リビングを後にする時、パパはドアの横に掛けられたスクリーンを指差して2人きりで映画を見よう…と小さく言った。
長く静かな廊下を歩き続け、やがて見えてきた白いドア。その奥に自分の部屋があると思うと、少しだけドキドキした。
パパがそのドアをそっと引くと、また僕の目に明るい光が映った。
僕は一目でその部屋を気に入った。
カーテンのない大きな窓の外にはやっぱり空しかなくて、その手前には幅の広いベッドが置いてあった。
奥の方にある真っ白な机はちょっと少女趣味に思えたけど、そのたたずまいは品があってとても素敵だった。
ベッドで寝ながら見られる位置に大きなテレビが置いてあるのも僕はすごく気に入った。
それほど広くない部屋なのにゆったりして見えるのは、恐らく天井が高いからだった。
「気に入ってくれた?」
パパが笑顔でそう言った時、僕は彼の手を強く握ってその返事をした。
この時僕はやっと幸せを掴んだような気がしていた。
大好きな人と2人でお空の上で暮らせるのだから、これ以上の幸せはないと思っていた。

 パパはピンストライプのジャケットをそっと脱ぎ、僕を軽々とベッドへ押し倒した。
すると僕の体に今まで味わった事のない不思議な感覚が走った。僕はパパを見上げてその気持ちを率直に打ち明けた。
「ねぇ、なんだか変な感じ」
「お空の上にいる感じ?」
パパに頬を撫でられるとだんだん気持ちがよくなってきた。ゆっくりと目を閉じて頷くと、パパの掠れた声が僕の耳をくすぐった。
「ここは湖の上。今度はウォーターベッドにしてみたんだよ」
そう言われると、たしかにそこが水の上であるのが分かった。
背中の下がなんとなく柔らかく、足をバタつかせるとすごく弾力を感じた。
僕は早く水の上でパパと愛し合いたかった。その意思を伝えるために彼を抱き寄せると、僕の願いはすぐに聞き入れられた。
無防備な舌を強い力で吸われると、それだけですごく興奮した。瞼の向こうには近い場所から僕らを照らす太陽の日差しを感じた。
「もう少し時間が経ったら、きっと星空のカーテンが引かれるよ」
パパは僕の耳に唇を寄せて小さくそう囁いた。その時彼の手はすでに僕のティーシャツの下に入り込んでいた。

 僕はすごく興奮していたけど、どこか冷静だった。
その時僕は頭の隅にぼんやりといくつかの疑問を浮かべていた。
パパはいったいいつこのマンションを買ったのだろう。こんなにすごいマンションを買えるなんて、彼はいったいどれほどの資産を持っているのだろう。
それに彼は、いったいいつここへ家具を運び入れたのだろう…