20.
パパの仕事は少しずつ増えているように思えた。
彼は僕が学校へ行っている間に仕事をしている様子だったけど、それだけでは間に合わず夜も仕事に費やす時間が多くなっていた。
毎晩午後8時を過ぎると、パパは僕と一緒に仕事部屋へ向かった。
新しいマンションでの仕事部屋は僕の部屋のすぐ隣にあった。
そこは以前より少し広かったけど、中の様子はそれほど変わりがなかった。
ただノートパソコンを置く机が大きな物になり、本棚には少し厚めの雑誌が多く並ぶようになっていた。
パパは自分の小説が掲載された雑誌などをすべて手元に1冊は置いておく事にしていて、その量が増えたという事は彼がそれだけ仕事をこなした証しだった。
パパの仕事のやり方は相変わらずだった。
部屋に明かりを点けず、ゆったりした回転椅子に座って眩しいブラウザに集中する。
きっとそのスタイルは何年たっても変わらないのだと思った。
僕はパパが仕事をしている間ずっと彼のそばにいた。
でも仕事の邪魔をするわけにはいかなかったから、彼と椅子を並べて雑誌をめくる事にしていた。
パパは未完成な小説を人に見せる事をすごく嫌った。でもちゃんと書き終えて雑誌に載ったものを僕が読むとすごく喜んでくれた。
僕にはそれがよく分かっていたから、白いブラウザの光だけを頼りにして掲載済みのパパの小説に目を通す事にしていたのだった。
カチャカチャカチャ…
僕が読書にふけっている間、暗い部屋の中にはいつもキーボードを叩く音が響いていた。
だけど時々その音がピタッと止む事があった。
そんな時にパパをチラッと見つめると、彼は机の上に両肘をついて何かを考え込んでいた。
パパは仕事に行き詰るとよくそうやって白いブラウザを睨みつけていた。
やがて両手を持て余した彼はコットンパンツの上から軽く自分の太ももを叩いたりもした。
彼がそんなふうにイライラした様子を見せるのは仕事をしている時だけと決まっていた。
僕はそんな時彼の神経を逆なでしないように特に静かにするよう心掛けていた。
「はぁ…なんだか気乗りしない。今日はもうやめにしようかな」
ある夜、しばらくブラウザを睨みつけていたパパが珍しく仕事を投げ出してそうつぶやいた。
僕は投げやりなその言い方を聞いて少し驚いていた。
彼はいつだって沈着冷静で、どんな時でも決して取り乱したりやけになったりする事のない人だったからだ。
「…とは言っても、締め切りが迫ってるしな。まずは少し休憩しようか」
だからこそパパがそう言って微笑んだ時には心の底からほっとした。
2人で薄暗いリビングへ行くと、そこは星空に囲まれていた。空と繋がるガラスの壁は昼と夜ではまったく別な顔を見せるのだった。
「おいで」
パパは柔らかいソファーに寝そべって僕に両手を差し伸べた。
リビングの新しいソファーはとても奥行きが広くて、僕たち2人が横になるにはちょうどよかったのだ。
すぐに彼の胸に飛び込むと、ソファーがほんの少しだけ揺れ動いた。
床に埋め込まれた間接照明が、ピッタリ寄り添う僕たちの姿を薄く照らしていた。
パパは薄いカシミアのセーターを着ていて、その胸に顔を埋めると頬に気持ちのいい感触が走った。
「パパ、疲れてる?」
広い胸にそう尋ねると、パパの細い指が僕の髪を撫でてくれた。すると体全体に安心感が伝わった。
「大丈夫。雅巳くんがいればがんばれるから」
彼は本当に優しい人だった。
そっと顔を上げるとすぐそこにパパの柔らかな頬があって、輝くような目に見つめられるとそれだけですごく幸せになれた。
「ねぇ、パパはどうして小説家になろうと思ったの?」
不思議な事に僕はそれまでその質問を彼にぶつけた事がなかった。
考えてみれば、僕は彼の事を何も知らなかったのだ。
「俺の両親は仕事人間でね、2人ともろくに家にいたためしがなかったんだ。
小さい頃はそれがすごく淋しくて、いつの間にか頭の中でいろんな物語を作り出すのが癖になったんだよ」
「じゃあそれを小説にしようと思ったの?」
「うん。俺の頭には小説のネタがいっぱい詰まってたからね」
「そう…」
「高校を卒業して家を飛び出してからはとにかく小説を書きまくって出版社の人に見てもらってた。
でもどんなにおもしろい話を書いても評価は低かったな。
君の小説にはリアリティーがないって、いつもそう言われてた。
頭の中で作り上げた物語じゃやっぱりダメなんだよ。
だから少し外へ出てホストをやってみようと思ったんだ。
それは今でも正解だったと思ってる。夜の街には信じられないほどおもしろい現実がゴロゴロ転がってたからね」
パパの目はどこか遠いところを見つめているようだった。
彼も淋しかったんだ。僕と同じように淋しかったんだ。
それが分かった時、一瞬僕の胸に鈍い痛みが走った。
「はぁ…」
パパが額に手を当てて小さくため息をついた時、突然すぐそばで携帯電話の震える音がした。
僕はその音に驚いて一瞬ドキッとした。
パパは至って冷静にコットンパンツのポケットから携帯電話を取り出し、それをすぐ耳に当てた。
「はい」
掠れた声で電話に出た後、彼は少し疲れた様子でゆっくりと目を閉じた。そして電話の相手と少しの間言葉のやり取りを繰り返していた。
「あぁ、お前か。どうした?」
「え?本当に?」
「それはやばいだろう」
「分かった。今すぐそっちへ行くよ」
パパが電話の相手に向かって言ったのはその程度の言葉だけだった。
それを聞いていた僕は彼が自分を家に置いて出かけてしまう事を悟った。
「雅巳くん、俺ちょっと急用ができたんだ。
これから出かけるけど、もしかしたら今夜は帰りが遅くなるかもしれない」
僕の背中を2〜3度ポンポン、と叩いた後、彼が早口でそう言った。
パパが急いで起き上がるのを見た時、間接照明に照らされる顔の表情が硬かったので少しだけ不安を抱いた。
「どこへ行くの?」
「元のホスト仲間がやばい事になったんだ。ちょっと店に顔を出してくる。でも心配しなくていいよ」
彼はあっという間にスーツに着替え、玄関で首にネクタイを巻きながらそう言った。
不安げにパパを見つめると、彼はフッと小さく笑って僕の頬に短いキスをしてくれた。
「先に寝てて。夜中に起こされるの、好きだろう?」
急に冷たい目をしてそう言われると、僕はもう何も言えなくなってしまった。
家を出て行くパパの背中を見送った後は、頬に残る唇の温もりで彼の存在をたしかめるしかなくなった。
その時はまだ午後10時を過ぎたばかりだったけど、もう布団にもぐって眠ってしまおうと思った。
1人でいると余計な事を考えてしまいそうだったから、早めに眠って夜中にパパに起こされるのを待とうと思ったのだ。
長い廊下を歩いて自分の部屋へ向かう時、ドアが開け放たれているパパの仕事部屋がふと気になった。
主人のいないその部屋を廊下から覗くと、白いブラウザの光が僕の目に突き刺さった。
パパはかなり慌てていたらしく、パソコンの電源も切らずに家を出て行ったのだった。
ノートパソコンの横にはさっきまで僕が読んでいた雑誌が置いたままになっていた。
僕は白い光に導かれるように部屋の中へ立ち入り、パパの椅子に腰掛けてブラウザに浮かぶ黒い文字をじっと眺めた。
それはパパの書きかけの小説だった。
僕は一瞬それを読んでみようかと思ったけど、結局そのファイルは保存してすぐに閉じた。
するとブラウザの色が白から青へと変わった。
その時僕は例の小説を読んでみたいと強く思った。それはもちろん、僕とパパの物語だった。
いけないとは思いながらも、僕はノートパソコンの中にそのファイルを探した。
僕の求めるものが薄っぺらな箱の中に入っている事はちゃんと分かっていたのだ。
でも目的のものはなかなか見つけられなかった。
パパは長編の小説ファイルを目に付くところには保存していないようだった。
次から次へとそれらしきフォルダを開いてみても、そこにあるものはとっくに完結している短編小説ばかりだった。
僕はそれでも夢中でマウスを動かし、根気よく僕たちの物語を探し続けた。
僕の頭にある事が閃いたのは、数あるファイルの半分ぐらいを開いてみた後の事だった。
その時ブラウザ上には4つも5つも重なってファイルが表示されていた。
もしかしてこのパソコンには隠しファイルが潜んでいるのではないだろうか…
そう思った僕は表示切替を実行し、隠しファイルが目に付くようにパソコンの設定を変更した。
するとある場所にさっきまではなかったフォルダが現れた。
もしかして、これか?
胸を躍らせながら急いでそのフォルダを開くと、そこには写真画像を表すアイコンがたくさん詰まっていた。
僕は小説ファイルを発見できなかった事に落胆し、何気なくその中の1枚の写真を開いてみた。
そして僕は驚くようなものを目にしたのだった。