24.

 その翌日、僕の身に大きな変化が起きた。
次の日になっても学校が退屈な事に変わりはなかった。そして放課後1番に教室を抜け出すのも同じだった。
ただ学校帰りにバスへ飛び乗ろうとした瞬間、突然誰かに声を掛けられたのだ。
「滝沢くーん!」
その時いつものバスはもうバス停の前に停まっていた。そのドアが開いたら、僕はすぐにでも乗車するつもりだった。
でも突然そんな声が聞こえて後ろを振り返ると、学ランを着た少年が自分に駆け寄ってくるのが見えた。
バス停横の洋菓子店は相変わらず甘い香りを撒き散らしていた。
黒い鞄を肩に掛けて走る少年の姿が見る見るうちに大きくなってきた。 彼は甘い香りと共に僕のそばへやってきたのだった。
やがてバスのドアが開くシューッという音が耳に響いた。
少年はその時ちょうど僕に追い付き、それからすぐに2人でバスへ飛び乗った。

 僕は訳も分からず彼に背中を押され、空いている2人掛けの椅子に座らされた。 少年はその後スッと僕の隣に腰掛け、額の汗を拭ってにっこりと微笑んだ。
するとそれまで感じていた甘い香りがどこかへ消え、その代わりに清潔な少年の香りが僕の鼻をついた。
「間に合ってよかった」
少年は弾む息を整えながらそう言った。
彼はすごく小柄で顔のパーツがどれも小さかった。そのバランスが整って見えるのは、恐らく顔そのものが小さいせいだった。
わりと色白で、目がパッチリしていて、鼻が丸くて、唇はピンク色。
その顔をじっと見つめた時、彼が同じクラスの佐藤若葉だという事にやっと気がついた。
「滝沢くんもバイトしてるの?」
子供っぽい笑顔を見せて彼がそう言った時、僕はその言葉の意味がよく分からなかった。 ただその笑顔が眩しくて、少しの間彼に見とれていた。
その時すでにバスはスピードを上げて走り始めていた。
「僕、最近バイトを始めたんだ。この次のバスだとバイトに間に合わなくなりそうだから、今日はがんばって走っちゃった。 滝沢くんはいつも早く帰るけど、バイトしてるんじゃなかったの?」
そう言って微笑む彼はかなりかわいかった。
一点の曇りもない目と、ツヤのある唇。
僕は内面から溢れ出す純粋さのようなものをその笑顔から感じ取った。
若葉は心も体も健康に見えた。要するに僕とはまったく正反対の人間に思えた。
その笑顔は、両親に愛され、友達に愛され、幸せに生きてきた人の笑顔だった。
人を疑うとか、人を欺くとか。きっとそんな言葉は彼の辞書には存在しないのだと思った。
時々バスが揺れて2人の腕が触れ合うとちょっと嬉しくなった。 純粋な彼と触れ合うと、自分の心も浄化されるような気がしたからだ。
「佐藤くんは…どんなバイトをしてるの?」
僕はほとんど乗客のいない車内で初めて彼に話し掛けてみた。
バスの窓はどこか一部が開いていたようで、時々頬に春の風を感じた。隣に座る彼の前髪も同じ風に揺れていた。
「若葉でいいよ。皆そう呼ぶから」
彼は質問に答える前にそう言ってもう一度笑顔を見せた。そしてバイト先がコンビニである事をあっさりと打ち明けてくれた。
僕は流れ行く窓の外の景色をほとんど見なかった。僕の興味は隣で微笑む彼に集中していたからだ。

 「滝沢くんのお父さんは、何してる人?」
赤信号でバスが一旦停まった時、若葉が急にパパの話を始めた。
僕はこの時も彼の質問の意図がよく分からなかった。でも若葉は口に出さない疑問の答えをすぐにくれた。
「入学式の時、滝沢くんのお父さんを見てびっくりしちゃったんだ。すごく綺麗な人だったから、モデルか何かやってるのかと思って…」
この子は素直だ。それを聞いた時、僕はそう思った。
今までの知り合いは僕のパパが完璧に美しい事を知っても決してそんな事を口にしたりはしなかった。
中学の時のクラスメイトは、僕を肯定するような言葉は一切言わない連中ばかりだった。
「僕のパパは小説家だよ」
彼があまりに素直なので、僕も素直に本当の事を言った。するとパッチリした彼の目が更に大きく見開いた。
「へぇ、すごいね。どんな小説を書いてるの?」
「官能小説かな」
僕は1月に出版した本の内容を思い出し、できるだけ忠実な答えを導き出してそう言ったつもりだった。 なんとなく彼には嘘をつきたくなかったからだ。
すると若葉は急に頬を染めて俯いた。
見るからに純真無垢な彼にとって、僕の答えは少し刺激が強すぎたのかもしれない。
「冗談だよ」
感情を素直に表す彼を見ていると、なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。
僕たちはそれからしばらく無言になり、ただバスの揺れに身を任せていた。

 彼との会話が途切れると、窓の外の景色をぼんやりと眺めた。
その時バスはオフィス街を走っていて、道沿いには商業ビルや銀行などが並んでいた。
前日雨が降ったのはほんの短い間だけだったので、アスファルトはもうすっかり乾いていた。
青い空の半分ぐらいが白い雲で覆われ、太陽はその向こうに見え隠れしていた。
「ねぇ、明日から一緒に帰ろうよ」
ふいに若葉にそう言われ、またすぐ目線を彼に戻した。さっきまでピンク色だった彼の頬は元通りに白くなっていた。
バスが右折する時、僕の体が彼の方へと大きく傾いた。その時僕たちの髪が僅かに触れ合った。
車内には次の停留所を案内するアナウンスが大きく流れていた。
若葉はじっと僕を見つめていた。彼は子供っぽい笑顔を決して絶やさなかった。
その笑顔に包まれたら、僕も純粋な心を持てるような気がしていた。
裸になって彼と抱き合えば、心も体も綺麗になれるような気がしていた。
ふとそんな思いを頭に浮かべた瞬間こそが、僕の長い1日の始まりだった。


 若葉とはバスを降りたところでサヨナラした。
彼はそのままバイト先へ向かい、僕はそれから電車に乗り換えて真っ直ぐ家へ帰った。
家の前に着いてインターフォンを押すと、パパはすぐに中からドアを開けてくれた。
彼はちゃんと僕の帰りを待っていてくれたのだ。
「お帰り、雅巳くん」
「…ただいま」
僕は玄関に立ってじっとパパの姿を見つめた。
透き通るような白い肌と、輝く目と、子供のように細い腕。ティーシャツに隠された広い胸。そしてジーンズに包まれた長い足。
綺麗という言葉はパパのためにある。彼の姿を見つめた時、僕は素直にそう思っていた。
パパは冷たい目をして僕をじっと見つめた。
この時彼のアンテナは僕の微妙な変化を読み取ったようだった。
パパは僕を静かに抱き寄せ、スッと小さく息を吸って僕の髪の匂いを嗅いだ。
そこにはきっと清潔な少年の香りがまだ残されていた。