27.

 「もしもし」
懐かしいママの声が電話越しに聞こえると、また心臓がドキドキしてきた。
実際に彼女の声を聞くと怖くてそのまま電話を切りたくなった。 でもそれ以上にここで勇気を出さないと一生後悔するような気がしていた。
「…ママ?」
「まぁちゃん !?」
絞り出すような声でママに呼びかけると、間髪入れずに彼女がそう言った。
弾むようなその声を聞いた時、僕はすぐに悟った。ママは僕からの連絡をずっと待ちわびていたのだ。
「ママ、これから会えない?ほんの少しで構わないから」
「今どこにいるの?」
「外だよ」
見上げた空に飛行機雲を発見した。その時、ママもどこかで同じ空を見つめているのかもしれないと思った。
「じゃあ、今すぐソレントに来て。ママお店の前で待ってるから、タクシーに乗ってすぐに来て」
飛行機雲を目で追いかけていると、彼女の明るい声が小さく耳に響いた。
"ソレント" というのは昔ママと一緒に行った喫茶店の名前だった。
そこへ行ったのは随分前の事だったけど、ママはちゃんとその時の事を覚えていたようだった。


 ソレントは歓楽街のはずれにあった。そこへ辿り着いた時、空は茜色に染まっていた。
レンガ造りの小さな建物と店名の入った白い看板がとても懐かしく思えた。 でも店の前に立ってキョロキョロしているママの姿は、それ以上に懐かしく僕の目に映った。
僕を乗せたタクシーが店の前で停まると、それに気づいたママがすぐに近づいてきた。
「ありがとう。お釣りは結構よ」
タクシーの自動ドアが開いた後、ママが年老いた運転手にサッと一万円札を手渡した。
まだ時間が早かったせいか、歓楽街に人はまばらだった。
僕がタクシーを降りると、背中の後ろでバン、と車のドアの閉まる音がした。そして僕たちは歩道の上で向き合う事となった。
ママは紺色のロングドレスに身を包んでいた。大きく胸の開いたドレスはセクシーでありながらもどこか上品だった。
ママは綺麗だった。サラサラな長い髪と真っ赤な唇がすごく艶っぽくて、ドキドキしてしまうほど綺麗だった。
少し緊張していたのか、彼女は表情が少し硬かった。
「少し見ないうちに、随分大人っぽくなったわね。背も伸びたし、声も低くなったし」
ママは僕を見上げてそう言った。彼女の目には茜色の光が反射していた。
僕はママの背丈が小さく見えた事で自分の背が伸びた事を初めて自覚していた。
「まぁちゃんはすごくかっこよくなったわ。ママの恋人にしたいぐらいよ」
彼女は歯の浮くようなセリフを平気で口にした。僕はなんだか恥ずかしくて思わず俯いてしまった。
ふと見下ろした歩道の上には短いタバコの吸殻が転がっていた。

 レンガ色の建物へ入ると、コーヒーの苦い香りがした。
ソレントの店内は以前来た時とあまり変わりがなかった。
窓のない狭いスペースにテーブルが8つ並び、そのテーブルを挟んで籐のソファーが置いてある。
たしかママはこの店のソファーが気に入って似たような物を購入したのだった。
僕たちは1つだけ空いているテーブルを見つけ、ゆっくりと歩いて店の奥へ進んだ。
「アイスココアを2つ」
僕たちが向かい合ってソファーに腰掛けると、ママが黒服のウェイターにそう言った。
テーブルの横には青い光を放つ水槽が置いてあり、たくさんの熱帯魚がその中をスイスイと泳ぎ回っていた。
僕たちは飲み物が運ばれてくるまで何も話さなかった。でももう何も話す必要なんかなかったのかもしれない。
ずっとすれ違っていた2人がほんの少しだけ歩み寄った。本当はそれだけでもう十分だったのかもしれない。

 「あの人は元気?」
テーブルの上に飲み物が運ばれてくると、ママは笑顔も見せずにそう言った。
彼女の小ぶりな顔は水槽の光が反射して青白く見えた。真っ赤なはずのママの唇は、そこでは薄い紫色だった。
ママの言う "あの人" がパパをさしている事は明らかだった。
僕は冷たいグラスに口を付け、甘ったるいココアを味わいながらうん、と短く返事をした。
「あの人にはちゃんとかわいがってもらってるの?」
ママの口調は淡々としていた。
僕たちはほとんど目を合わせる事もなく静かに会話を交わしていた。 ママは伏し目がちだったし、僕は水槽の中を泳ぐ熱帯魚を漠然と見つめていた。
パパの話は僕らの間では避けては通れない話題だった。でも彼の話になると2人の間に少し気まずい空気が流れた。
僕が黙っていると、ママが手にするグラスの中で氷がカラン、と小さく音をたてた。
彼女がソファーに座りなおすと、何故だか少しドキドキした。
店の中はすごく温かくて、僕は首筋に薄っすらと汗をかいていた。
しばらく水槽の放つ光を浴びていると、明かりのない部屋で見つめた青いブラウザを思い出した。
ブラウザいっぱいに広がる暗い目をした少年の顔は、僕の脳裏に焼きついて離れなかった。

 「ねぇ、ママはパパといつ知り合ったの?」
僕はママに謝りたくてそこへ来たはずなのに、気が付くとそんな言葉を口にしていた。
僕は心の奥でずっとあの写真が撮られた理由を探し求めていた。 この時の僕はなんとかしてママからそのヒントを得ようとしていたのかもしれない。
結局僕はママへ謝る事よりも自分の感情を優先させたのだ。
「丈二と初めて会った時、彼はまだ19歳だったわ。彼と知り合ったのはあの人がホストを始めたばかりの頃よ」
「僕の事、パパにはすぐに話したの?」
「そうね。そうだったかもしれないわ。でも…どうしてそんな事聞くの?」
「パパは僕の写真を撮ってた。僕がパパに会うずっと前に、僕の写真を撮ってた…」
「え?」
その時伏し目がちだったママが僕の顔を真っ直ぐに見た。その気配を感じた僕もすぐにママを見つめた。
彼女も僕と同じで、僕が突然電話してきた理由を探し求めている様子だった。
ママはきちんと僕の目を見てくれた。彼女は今までにないほど真剣に僕の話に耳を傾けていた。
それが分かると急に気が緩んで、次から次へと喉の奥から負の感情が溢れ出た。
「僕、パパとはもうダメかもしれない。 パパは最初から僕の事なんか好きじゃなかったのかもしれない。 僕は単なる小説のネタでしかなかったのかもしれない。 今日僕がこうしてママに会いに来た事も、パパは小説のネタにするのかもしれない」
息もつかずにそう言うと、喉がカラカラに渇いて呼吸が苦しくなった。
僕はグラスに残る甘ったるいココアを飲み干し、小さく深呼吸を繰り返した。
ママは少し表情を曇らせ、しばらく黙って僕を見つめていた。
8つのテーブルがすべて埋まっていたせいか、店の中はザワついていた。誰かの笑い声が、しょっちゅう僕の耳に入り込んでは消えていった。
恐らくそこにいた客の中で1番しんみりしていたのは僕たちだった。
真っ赤なマニキュアを塗ったママの爪は唇と同じく薄い紫色に見えた。
ママはほとんど中身の減っていないグラスをそっとテーブルの上に置き、それから驚くべき事実を語った。

 「昔まぁちゃんとこのお店に来た時の事、覚えてる?たしかあの時もこの席に座ったと思うんだけど…」
ママはそう言って遠い昔に思いを馳せているようだった。彼女は青く光る水槽を眺め、クスッと小さく笑った。
僕はもちろんその時の事をよく覚えていた。
あれは僕が小学校4年生の時だった。夏休みが明けて間もない頃、ママは珍しく僕を外へ連れ出したのだ。
日曜日の午後。空には太陽が輝いていた。
あの日は暑かったのに、ママは何故だか僕に紺色のブレザーを着せた。 そして僕はママと一緒にタクシーに乗ってレンガ造りのこの店へやってきた。
ソレントの店内は今と同じようにすべての席が埋まっていた。
でも僕たちが来た途端にちょうど一組の客が帰ったので、僕とママはその人たちと入れ替わりにこの席へ着いた。
店の中は冷房が効いていたから、ブレザーを着ていてもそれほど暑くは感じなかった。
青い光を放つ水槽はあの時からすでにテーブルの横に存在していた。
「アイスココアを2つ」
あの日もママはウェイターに今日と同じ注文をした。
でも飲み物の入ったグラスは今と昔では随分違っていた。
今は何の変哲もない透明なグラスが使われていたけど、昔はワイングラスのような物にアイスココアがなみなみと注がれていた。
「まぁちゃん、お腹すいてない?オムライスでも食べようか?」
飲み物の注文を済ませた後、彼女はにっこり微笑んで僕にそう言った。あの日のママはすごく優しかった。
ママの髪は今より少し短くて、毛先だけが大きく内側に巻かれていた。彼女が動くとツヤのある髪も一緒に躍動していた。
ママが優しく微笑むだけで、僕はすごく嬉しかった。

 「あの時、この水槽の向こうにまぁちゃんの本当のパパがいたの。もちろんあなたはそんな事知らないと思うけど」
「…え?」
ママは虚ろな目で青く光る水槽を眺めていた。
彼女の視線を追いかけると、スイスイ泳ぎ回る熱帯魚の向こうに髪の短い女の人の姿が見えた。 黒っぽい洋服を着た彼女は、右手にタバコを持って小さな口から煙を吐き出していた。
「今タバコを吸ってる女の人が見えるでしょう?あなたのパパはその席に座ってまぁちゃんの姿を見ていたのよ」
ママの突然の告白に、嫌でも心臓が高鳴った。
水槽の中の水はユラユラと揺れていて、その向こうの人影が少しだけ歪んで見えた。
僕はあの日もこうして同じ水槽を眺めていた。
僕はなんとかしてその向こうに見た景色を思い出そうとした。でもどれほど記憶の糸をたどっても、何も頭に浮かばなかった。
「あの頃、あの人から何度か電話をもらってたの。 彼は私とやり直したいと言ったわ。それから、まぁちゃんに会わせてほしいと言ったのよ」
この時ママは別な人をさして "あの人" という言葉を使った。彼女は昔愛した2人の人を同じ言葉で表現したのだった。
それまで水槽を眺めていたママが僕の顔を真っ直ぐに見た。その気配を感じた僕もすぐにママを見つめた。
「あの人はママの親友と浮気したの。浮気というより本気ね。 私たちはそれで別れたのよ。でもあの人は彼女とうまくいかなくなった途端に急にそんな事を言い始めたの」
ママは口元を歪めて笑い、グラスを手にしてアイスココアを少し喉へ流し込んだ。
そんな話をする時でも彼女は毅然としていた。

 それからしばらく僕たち2人の間に沈黙が流れた。
ママは半分ぐらい中身の減ったグラスを小さく揺らしてカランカラン、と氷の音をたてていた。
気がつくと、いつの間にか水槽の向こうの人影が消えていた。 僕の本当のパパも、きっとそんなふうに黙って店を立ち去っていったのだと思った。
パパはいったいどんな思いで僕を見つめていたのだろう。そんな事を考え始めると、夜も眠れなくなりそうだった。
やがてママはテーブルの上に肘をついて1つ大きくため息をついた。
その時彼女はすごくスッキリした顔をしていた。
「あの人の本を読んだわ。ママがいかに身勝手な女かよく分かる内容だった。 あの人は私に読ませるためにあの小説を書いたのかもしれない」
ママの言う "あの人" がまた変わった。彼女にとってはどちらの "あの人" も同じようなものだったのかもしれない。
「まぁちゃんとあの人の関係を知った時、ママは深く傷ついたの。 本当にすごく傷ついて、毎日毎日泣いて、もう死んじゃいたいと思ったわ。 ママにそんな思いをさせてまであの人と一緒になったくせに、簡単にもうダメだなんて言わないでよ」
それは周囲のざわめきにかき消されそうなほど小さな声だった。
ママはそっと俯いてにっこりと微笑んだ。紫色の唇の奥に、わずかに白い歯が覗いた。
彼女は昔僕の本当のパパにも同じ事を言ったのだ。きっと笑顔で、同じ事を言ったのだ。
「ママを傷つけた分、あなたもちょっとは苦しみなさい」
彼女が微笑むと、目尻にたくさん小さなシワが寄った。
それでもママの笑顔はかわいかった。僕の自慢のママは、昔から誰よりも綺麗だった。
結局僕は一度もママに謝る事がなかった。彼女が僕を許してくれたから、謝る必要がなかったのだ。
ママは身勝手な女なんかじゃなかった。綺麗で、寛大で、強く優しい人だった。


 僕たちは午後7時半頃2人揃ってソレントを出た。
本当はもう少し長くママと話していたかったけど、彼女はその日も仕事があったのだ。
すでに外は暗くなっていて、歓楽街には色とりどりのネオンが輝いていた。
ネオンの光があまりにも明るかったせいか、夜空の星は影が薄かった。
サラリーマン風の男たちが何人か大声で話しながら僕らの横を通り過ぎて行った。
夜の街にはすでに人が溢れていた。涼しい夜風を浴びると、すごく気分がよくなった。
僕たちは歩道の端に立ってタクシーを探した。ママが手を上げると、1台の白いタクシーがすぐ僕たちの前に停まった。
彼女とはそこでお別れだった。

 じゃあね、と言ってゆっくりとタクシーに乗り込もうとした時、ママが一瞬僕の足を止めさせた。 彼女は不出来な息子の顔をじっと見上げ、僕の右手に3枚の一万円札を握らせた。
「まぁちゃんはかっこいいから何でも似合うけど、外へ出る時はもう少しマシな洋服を着た方がいいわ」
僕はその時古くなったティーシャツと色褪せたジーンズを身に着けていた。たしかにそれはあまり褒められた服装ではなかった。
「あの人は外へ出る時必ずスーツを着るでしょう? 昔ママがそうするように言ったのよ。 いい洋服を着ているだけで人の目は随分違ってくるものなの。だから、まぁちゃんもいつも綺麗にしてなさい」
彼女は珍しく母親らしい事を言った。彼女はその時、間違いなく母親の顔をしていた。
僕は彼女から受け取った3枚のお札を手の中で握り締め、黙って小さく頷いた。
「何があったのか知らないけど、帰ったらちゃんとパパと話すのよ」
「うん」
「でも…どうしてもダメだったらママの所へ戻ってらっしゃい」
ママは最後に軽く微笑んでそう言った。
彼女は昔、僕の本当のパパにもそう言ったのだろうか。
それは僕には決して分からない事だった。