28.

 僕が家へ帰ったのは午後8時過ぎの事だった。
マンションの横でタクシーを降りると、涼しい夜風が僕の頬を撫でていった。
高級住宅地に派手なネオンはなく、そこでは夜空の星がはっきりと見えた。
僕はママに言われた通り、帰ったらすぐにパパと話したいと思っていた。
コミュニケーションが苦手な僕はあまり多くを語る自信がなかったけど、とにかくパパが大好きだという事をきちんと彼に伝えたかったのだ。
そしてその願いはすぐに叶いそうだった。それはパパが外で僕の帰りを待っていてくれたからだ。
マンションの入口前には1つだけコンクリートの段があり、パパはそこにたった1人で座っていた。
彼は外へ出る時いつもスーツを身に着けるはずなのに、その時は僕と同じくティーシャツにジーンズという姿でそこにいた。
パパは胸に何かを抱えてうずくまっているように見えた。
この時は僕も目に見えないものをたくさん抱えていた。ママと一緒に過ごした余韻が僕のすべてを包み込んでいたのだ。
マンションの玄関ホールから漏れる光が俯くパパの姿を淡く照らしていた。 涼しい夜風は入口横の花壇に植えてある花を斜めに傾かせていた。
高級住宅地の夜は静かだった。そこには僕たち以外に誰もいなかった。
僕がパパに駆け寄ると、彼が静かに顔を上げた。 その瞬間すぐに彼が微笑んだので、僕もほっとして笑顔になれた。
パパはスッと立ち上がり、胸に抱えていた紺色のグローブを僕に手渡した。 それは買ったばかりの物のようで、まだ新しい革の香りがした。
「キャッチボールしよう」
僕がわけも分からずに冷たいグローブを受け取ると、パパはそう言って突然駆け出した。
振り返ると彼はすでに道路に飛び出していて、僕の10メートルぐらい先に立って左手に同じグローブをはめようとしていた。

 「いくよ!」
パパの大きな声がマンションの壁に反射した。その時彼は白い外灯の光を背負ってボールを投げる体制に入っていた。
彼は本当にキャッチボールをするつもりだ。
それが分かった時、僕も慌てて左手にグローブをはめた。
彼が綺麗なフォームで白いボールを投げると、それは僕の胸のあたりに真っ直ぐ飛んできた。
バシッ。
パパの投げたボールがグローブに収まり、今度はその音がマンションの壁に反射して耳に跳ね返った。

 彼と初めて会った日も、僕らは素手でキャッチボールをした。
あの日の空は青かった。
あの時彼が投げた最初のボールは遅いスピードでゆっくりと僕の手元へ飛んできた。 そのボールを素手で受け取ると、僕の手に少しだけ泥が付いた。
薄汚れたボールとその影は、僕らの間を何度も行き来した。
彼の投球フォームはあの時からすごく綺麗だった。
彼がゆったりとしたフォームで右腕を振ると、ボールは僕の胸の前へ真っ直ぐに飛んできた。
あの日彼は僕のパパになりたいと言い、僕も彼の息子になりたいと思った。
あの頃の僕は自分がパパと愛し合う事になるなんて夢にも思っていなかった。

 僕は彼とキャッチボールをするのが急に楽しくなって、すぐにボールを投げ返した。
僕が投げたボールは白い外灯の光に照らされながらしっかりとパパの元へ辿り着いた。
バシッ、バシッ。
それを繰り返すと、グローブにボールの収まる音があたりに何度もこだました。
その間僕たちにほとんど会話はなかったけど、ボールと同じように僕たちの思いもお互いの間を行き来しているのだと感じていた。
パパがボールを投げるたびに彼の茶色い髪が揺れていた。
キャッチボールを長く続けていると、また首筋にじわっと汗をかいた。
パパが終始笑顔だったので、僕はすごく安心していた。
キャッチボールを終えたらすぐに2人で一緒にシャワーを浴びたいと思った。 それからベッドの上でいっぱい彼と話をしたいと思っていた。

 僕たちは多分15分か20分ぐらいは黙々とキャッチボールを続けていた。
そのうち体がポカポカに温まって、汗ばんだ肌にティーシャツが貼り付くようになった。
僕が右手で額の汗を拭うと、パパは僕が投げた最後のボールをグローブに収めてゆっくりと僕に近づいてきた。
僕たちのキャッチボールは2度中断していた。
1度目は僕らの間を車が走り抜けていったためで、2度目は同じように自転車が通ったためだった。
ザクザクと足音をたててパパはどんどん僕へ近づいていた。
その時僕は素早くあたりを見回して他に人影がない事を確認していた。
見上げた空にはたくさんの星があった。僕は綺麗な星空の下で誰にも知られずに彼とキスをしたかったのだ。
パパが目の前にやってきた時、僕はそのつもりで彼の肩に手を伸ばした。 でも結局その手は彼に届く事なく終わってしまった。

 「俺、ちょっと出かけてくるから」
パパがにっこり微笑んでそう言った時、彼の肩に伸ばしかけていた手を力なく落とした。
パパはいつも優しい目で僕を見つめていたわけではなかった。 時には冷徹な目が僕を捉え、僕はその目に寒気を感じながらもゾクゾクするほど興奮していた。
でもその時の彼はママを見つめる時のようにやけに優しい目を僕に向けていた。
その表情はほとんど愛想笑いに近かった。彼はその仮面の内側にすべての感情を覆い隠しているかのようだった。
僕はあまりにも美しすぎる彼の笑顔が急に恐ろしくなった。 彼の真っ白な頬も、輝く目も、すべてが僕を拒絶しているように思えたからだ。
彼は左手にはめていたグローブをスッとはずしてそれを僕に渡した。
彼がラフな服装をしていたので、パパは僕と一緒にこのまま家へ戻ると思い込んでいた。
でも彼は一旦帰って着替えるようなそぶりも見せず、今にも僕に背を向けてどこかへ行ってしまいそうだった。
僕はママの言い付けを守ってすぐに彼と話そうとしていたのに、彼はママの言い付けを破ってラフな服装のまま出かけようとしていた。
急に心臓の動きが早くなって、ドクン、ドクン、と脈打つ音が大きく耳に響いた。
僕はママと分かり合えた事で浮かれていた。
でも明らかにいつもと違うパパの様子を目の当たりにした時、彼を失ってしまいそうな予感が息を吹き返していた。
「何時に帰るか分からないから、先に寝てて」
気持ちの整理がつかないうちに、彼が僕に背を向けた。
パパが白い外灯の光に向かって歩き出すと、彼の足音が少しずつ遠ざかっていった。
「パパ…どこへ行くの?」
僕の大きな声がマンションの壁に反射した。
その後パパは1度だけ立ち止まった。でも彼は決して僕を振り返ろうとはしなかった。
「ずっとあの部屋にいると、息が詰まるんだよ」
つぶやくようなその声はかろうじて僕の耳に聞こえるほどの大きさでしかなかった。その小さな声は、僕をはっきりと拒絶していた。
少なくともその瞬間の彼は僕と2人でいる事よりも僕と離れる事を選択したのだった。
遠ざかっていくパパの背中が妙に小さく見えたのは、僕が大きくなりすぎたせいだったのかもしれない。


 やがてあたりに静寂が走った。
彼が立ち去ると、白い外灯の光は誰もいない道路を静かに照らしていた。
現実に思考が追い付かず、僕は何度もその光の下にパパの姿を探した。
僕の長い1日はまだ終わりそうになかった。
そのうち彼のグローブに収められていたボールが足元に零れ落ち、軽く2〜3回バウンドした後道路へ向かってコロコロと転がり始めた。
もしかして僕の思いを乗せたボールは自分の代わりにパパの後を追いかけようとしていたのかもしれない。