29.
僕はその夜1人で布団に潜り、ずっとずっとパパが帰ってくるのを待っていた。
でも結局待ちくたびれて眠ってしまい、やがて瞼の向こうに朝日を感じて目が覚めた。
その時パパは僕の隣で眠っていた。彼は昨夜と同じティーシャツを着たままうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。
僕はパパがいつ帰ってきたのか知らなかったし、いつ僕の隣にきたのかもまったく分からなかった。
パパの乱れた髪は朝日に煌いていた。彼は熟睡している様子で、僕がその髪を撫でてもピクリともしなかった。
スッと小さく息を吸って彼の匂いを嗅ぐと、お酒の香りが僕の鼻をついた。
その朝パパは僕が家を出るまで起きなかった。
学校へ行くのはただでもユウウツなのに、その日はいつも以上に足が重かった。
空は晴れていたけど、僕の心はどんより曇っていたのだ。
僕は朝教室のドアを開けるのがすごく苦手だった。
遅刻ギリギリの時間に登校してそのドアを開けると、一瞬担任の教師が来たかと思って皆が僕に目を向けるからだ。
それはその日の朝も同じだった。
ガラッと音をたててベージュのドアを開けると、騒がしかった教室の中が突然静まり返った。
その瞬間クラスメイトたちの目が自分に向けられている事はよく分かっていたから、僕は俯き加減で教室へ足を踏み入れた。
登校後ほとんどの生徒たちは仲のいい友達とお喋りをして過ごす。それは担任の教師がくるまでずっと続く。
教室へやってきたのが僕だと分かると、また何もなかったかのように教室の中が騒がしくなった。
すると僕はほっとして静かに自分の席へ着くのだった。
僕の席は壁際の後ろから2番目だった。その時間自分の席に着いている生徒はわずかだった。
多くの連中は日の当たる窓際へ集まってお喋りを続け、窓際からあぶれた人たちは教室の後ろでたむろしていた。
僕はそんな時でも誰にも近づかず、誰とも話さず、自分の席に着いてため息をつく。それがいつもの行動パターンだった。
「滝沢くん、おはよう!」
ところがこの朝は珍しく僕に声を掛けてくる人がいた。
大きな声でそう言って僕の隣の席へ座ったのは昨日一緒に帰った佐藤若葉だった。
「…おはよう」
僕がぎこちなく朝の挨拶を返すと、彼はすぐに子供っぽい笑顔を見せた。
昨日長い1日を生きた僕にとって、バスの中で彼と過ごした時間が遠い昔の事のように思えた。
「もしかして寝不足?少し目が腫れてるよ」
そう言って微笑む彼は本当にかわいい少年だった。
彼が口角をきゅっと上げて笑うだけで、目の前がパッと明るくなったような気がした。
どうしたら彼のようになれるのだろう…
僕は光り輝く彼の笑顔を見つめてふとそんな事を思った。
裸で抱き合うとか、キスをするとか。そんな事をしても自分は彼のようにはなれない。
その事はちゃんと頭の隅で理解していた。
僕はその日も若葉と2人で帰りのバスに乗った。
彼は急いでバイト先へ行かなければならなかったし、僕は早く帰ってパパと話さなければならなかった。
家が近くなると、僕は知らないうちに駆け出していた。
早くパパを捕まえないと、彼がまたどこかへ行ってしまいそうな気がしていたからだ。
途中で後ろからきた自転車に追い越されると、それを再び追い抜くほどの勢いで走るスピードを上げた。
そのうち息が切れて、周りの木々や遠くの雲が揺れ動いて見えた。
それでも僕はずっとずっと走り続けた。
春の日差しが妙に熱くて、体温は徐々に上がっていった。
マンションのエレベーターへ乗り込む頃には、すでに体中から汗が噴き出していた。
僕は息を整えて家のドアの前に立ち、いつものように耳障りなインターフォンを鳴らした。
もしかしてパパは家にいないかもしれないと思っていたけど、ドアは無事に内側から開いた。
玄関でパパと向き合った時、一瞬僕の心に緊張が走った。
昨夜は変なふうに別れていたから、なんとなく構えてしまっていたのだ。
彼はいつもと変わらずラフな服装でそこにいた。
僕の緊張が不安へと変わったのは、パパが愛想笑いを浮かべた瞬間の事だった。
「お帰り、雅巳くん」
そのセリフは聞き慣れたものだった。でも僕に向けられる笑顔は以前とはまったく違っていた。
パパが無理をして笑っている事ぐらいバカな僕でもすぐに分かった。
顔の筋肉は必死に笑おうとしていたけど、目はちっとも微笑んでいなかったのだ。
それでもパパは僕の手を引いて薄暗い廊下を歩き、いつものようにリビングへ連れて行ってくれた。
薄手のシャツを着た彼の背中が、何故だかすごく淋しげに見えた。
ガラスの壁の向こうに光る太陽は昨日とまったく変わっていなかった。
白いタイルの床が日差しを浴びて光っているのも、パパが足音をたてずに歩くのも、ソファーがフカフカなのも昨日とまったく同じだった。
「今日は学校で何をしたの?」
パパと並んでソファーに腰掛けると、彼が愛想笑いを失わずにそう言った。
唇の奥には白い歯が覗いていたけど、やっぱり彼の目は笑っていなかった。
僕は彼にたびたびこの質問を投げ掛けられる事があった。
パパはいつでも小説のネタを探していて、僕が何かおもしろい話をする事を期待しているようだった。
だけど僕の学校生活はちっともおもしろみがなくて、いつもその期待を裏切った。
「別に…たいした事はしてないよ」
仕方なくそう返事をすると、パパは小さく息をついて茶色の髪をそっとかき上げた。
彼の頬は日差しを浴びて透き通って見えた。その時パパはわざとらしく笑う事をもうやめていた。
僕はこの時うまく話せない自分にイライラしていた。
パパに言うべき事はたった1つだけだったのに、なんとなく今までと違う彼を目の前にすると、好きという一言がどうしても声にならなかった。
そして僕は彼が抱いてくれる事を期待した。
パパと愛し合えば何も言わなくたって分かり合えると信じていたからだ。
でもその時はなかなか訪れなかった。
何度息を吸っても、何度瞬きしても、パパは決して動き出そうとしなかった。
何も言わない彼の横でそっと俯くと、日差しを浴びて光る床がすごく眩しく感じた。
僕はその光がすごく悲しかった。
いつものパパならすぐに僕の学ランを剥ぎ取ってそれを床の上に投げ捨てるはずだった。
なのにその日のパパはそれをせず、白い床は学ランに覆い隠される事もなく誇らしげに光を放っていた。
気付くとパパは黙ってガラスの壁の向こうを見つめていた。
パパの細い腕はすぐそばにあるのに、彼はその腕力を使って僕を押し倒す事さえしなかった。
僕はこの日、自分の手で学ランを脱いだ。
1つ1つ金色のボタンをはずして上着を脱ぐと、その気配に気付いたパパが僕を見つめてまた作り笑いを浮かべた。
皮肉な事に、無理をして微笑む彼はとても綺麗だった。白い頬が透き通っていて、思わず見とれてしまうほどに美しかった。
僕は脱いだ上着を床の上に投げ捨てて自らその光を奪った。
強引にパパをソファーの上に押し倒すと、彼は抵抗する事もなくあっさりとそこへ横たわった。
その瞬間に舞い上がった埃が、太陽の日差しの中で踊った。
僕は自分の持っているすべての力を使って彼の細い腕を押さえつけ、愛想笑いを浮かべるパパをじっと見下ろした。
彼の目の優しさはどの角度から見ても嘘っぽく見えた。その目の輝きは、イミテーションとしか思えなかった。
「痛いよ、雅巳くん」
パパに掠れた声でそう言われ、僕は彼の両腕をそっと解放した。
真っ白だったその腕には、僕の手の跡が赤くなって残っていた。
僕はもうパパの目を見ないようにした。
彼に覆いかぶさって温かい胸に頬を埋めた時、パパの細い指が僕の髪をゆっくりと撫でた。
そっと目を閉じて耳を澄ますと、パパの心臓がドクン、ドクン、と言っているのが聞こえた。
「パパ…大好き」
やっとやっと熱い思いを口にすると、ほっとしてそのまま眠ってしまいそうになった。頬に感じるパパの温もりがとても心地よかったからだ。
でもその瞬間にパパが突然動き出し、僕はまどろむ事を許されなくなった。
彼は僕の体を軽々と跳ね除け、一瞬にして体位を変えた。
気がつくと背中の下に柔らかいソファーの感触があった。
僕らの立場はさっきと逆転していた。
僕を見下ろすパパの笑顔は春の日差しに照らされていた。
彼の細い指がズボンの上から僕のものに触れると、ハッと息を呑んで思わずきつく目を閉じた。
パパの指はやっと僕の思い通りに動き始めた。
彼の指が僕のベルトをはずしてウエストが急に緩くなると、彼と1つになる時が近い事を知ってすごく興奮した。
腰のあたりに襲い掛かる圧迫感は僕をほっとさせた。
パパの硬い肉片は僕の中を自由自在に動き回っていた。
何も見ずにその感触を受け止めると、僕たちがいつもの2人に戻ったように思えた。
「パパ、好きだよ」
僕は何度も何度もその言葉を口にした。
それは僕の本心であり、昨夜からずっと彼に伝えたかった一言だった。
彼の指に乳首をつままれると、体が大きくブルッと震えた。
同じ指がすぐに位置を変えて濡れた先端を捉えた時は、激しい快感を覚えて体をのけぞらせた。
「あぁ…!」
大きな声が部屋中に響き渡った。それは自分のものとは思えないほど上ずった声だった。
硬い肉片が体の奥を突くと、そこにはっきりとパパの存在を感じた。
彼が腰を振るたびにソファーが小さく揺れた。
尖った爪が先端の割れ目に入り込むと、心も体も火傷したかのように熱くなった。
「あぁ…あぁ…パパ、大好き」
無意識に溢れ出した声がまた部屋中に響いた。
体中の血液が一点に集中し始めると、僕はまもなく訪れる絶頂の瞬間に思いを馳せた。
ところがパパはたった一言でその喜びの瞬間を遠ざけた。彼はその時僕に対して微かな抵抗を見せたのだ。
「君はもう俺を裏切ったのか?」
あまりにも冷静なその声を聞いた時、自然に僕の瞼が薄っすらと開いた。
パパは腰を振るのをやめなかったし、ソファーは相変わらず揺れていた。リビングの白い天井は、黙って僕を見下ろしていた。
「実は俺たちの物語の続編を書かないかって言われてるんだ」
「ねぇ、続編はどんな話がいい?俺たちはこれからどうなると思う?」
昨日パパは同じ場所で僕にそんな言葉を投げ掛けた。
その時僕がどうしたか。そんな事はそれまですっかり忘れていた。
「僕がパパを裏切って、他の人と愛し合うっていうのはどう?おもしろい話になりそうじゃない?」
僕は昨日の夕方そんなセリフを吐いて家を飛び出していた。
その言葉はパパを深く傷つけたに違いなかった。パパの書く物語は、常にノンフィクションなのだから。
なのに僕は自分の失態を心の隅に追いやって封じ込めようとしていた。
ママに許された安堵感に浸って、勝手に自分のすべてを許そうとしていた。
僕がママと穏やかな時を過ごしている間、パパはたった1人で悶々としていたのだ。
僕たち2人が楽しい時を過ごしている間、ママがたった1人で泣いていたように。