30.

 少し気まずいセックスを終えた後、僕たちはほとんど口も利かずにソファーで休んでいた。
パパはきちんと身なりを整えて横になっていたけど、僕はワイシャツだけを身につけて彼に寄り添っていた。
リビングの中はあまりに静かすぎた。耳に微かに響くのは、仰向けになっているパパの寝息だけだった。 でも彼が本当に眠っているのかどうかはよく分からなかった。
ただ目を閉じて安静にしている彼を見ているとすごくほっとした。 そしてできればもう無理をして微笑むパパを見たくはないと思っていた。
長い間そこにいると、そのうちに外が暗くなってきた。するともちろん空と繋がる部屋の中も徐々に薄暗くなり始めた。
僕はすぐ隣にいるパパの顔に手を伸ばし、人差し指で形のいい鼻にそっと触れてみた。
それからなんとなくその指を彼の口元へ持っていくと、渇いた唇が小さく開いて僕の指先にキスをした。
ツンと尖った温かい舌に指を舐められると、藍色の空気に晒された僕のものがまた反応を示した。
少しずつ下半身が熱くなり、彼を欲して腰をくねらせた時、フカフカのソファーがほんの少しだけ揺れた。
「パパ、こっちも舐めて」
僕は静かに目を閉じて硬くなった自分のものを彼の腰に押し付けた。
直接パパに触れられたわけではなかったのに、僕の先端はすでにしっとりと濡れているようだった。


 僕たちは夕方6時半頃2人揃って家を出た。その日はなんとなく近所の洋食屋で夕食を食べようという事になったからだ。
パパは家から歩いて10分ぐらいの店へ行くためにきちんとスーツを着込んでいた。
この時は僕もママに言われた通りできるだけ小奇麗な格好をして家を出ていた。 めったに袖を通さないジャケットを羽織ってパパの隣を歩くと、自然と背筋が伸びて心が落ち着いた。
僕たちはバス通りへ出るまでに会社帰りのサラリーマンと何度もすれ違った。 一般的に勤めている人たちが家路に着く頃、僕たちは彼らと逆の方向へ向かって歩いていたのだ。
その時パパは少し機嫌がよくなっていて、自然に微笑みながら僕の肩を抱いてゆっくりと歩いていた。 彼の掠れた声は、久しぶりに弾んでいた。
「雅巳くん、何食べる?」
「チーズハンバーグとクリームプリン。パパは?」
「じゃあ俺はグラタンにしようかな」
「デザートはいらないの?」
「いらないよ。もう食べちゃったから」
パパはフフッと笑って僕の肩を抱く手に力を込めた。彼がいつものように微笑むと、僕は心から安堵した。
夜が近づいて、藍色の空にはいくつか星が浮かんでいた。
正面にバス通りが見えてくると、白や黄色の車のライトが星のように煌いて僕の目を幻惑した。

 バス通りの洋食屋はかなり混み合ってざわついていた。天井からぶら下がる照明が、そこにいる人たちの姿をやけに明るく照らしていた。
オープンしたてのその店へ入ると、おいしそうなデミグラスソースの香りが僕の胃を刺激した。
僕たちは入口横のらせん階段を上って2階へ行く事にした。
木のテーブルがたくさん並ぶ広い1階のフロアには大勢の客がいて、そこではあまり落ち着いて食事ができそうになかったからだ。
ギシギシ言う階段を一段ずつ上るたびに下から響くざわめきが遠ざかっていった。
2階のフロアはとても狭くて、そこには僕たち以外に誰もいなかった。僕たちを囲む木の壁には、薄い色使いの風景画が2枚飾られていた。
テーブルを挟んでパパと向き合うと、僕は即座に彼を観察した。
パパは白い歯を見せて優しく微笑んでいた。店の中が温かかったせいか、頬は少し上気しているように見えた。
彼の前髪はいつの間にか目に降りかかるほどの長さに伸びていた。パパは時々無意識に細い指で長い前髪を払い除けていた。

 僕はちゃんとパパに謝らなければいけないと思っていた。
感情が高ぶって心ない言葉を口走り、彼を不安に陥れたのはこの僕だと分かっていたからだ。
そして彼の機嫌のいい今が謝るチャンスだと思っていた。
僕は知らず知らずのうちにパパの顔色を伺うようになっていたのだ。
「パパ、ごめんね」
僕はすべての勇気を振り絞ってその言葉を口にした。
いつの間にかすれ違っていた僕たちの心を、その一言でもう一度近づけたいと思っていた。
パパにはちゃんと僕の気持ちが伝わると思っていた。今なら彼は優しく微笑んで僕のすべてを包み込んでくれると思っていた。
パパの肩越しに、風景画に描かれたピンク色の花が見えた。おいしそうなデミグラスソースの香りは僕の胃を刺激した。
これからおいしい物を食べた後、2人で寄り添って家へ帰り、ベッドでもう一度愛し合う。
僕はそんな楽しい想像を頭に思い描いてそっと彼に笑い掛けた。だけどその時、パパの自然な笑顔が突然目の前から消え去った。
「どうして謝るの?やっぱり君は俺を裏切ったの?」
パパの掠れた声がそう言った。彼が無理をしてぎこちなく微笑んだのは、まさにその瞬間の事だった。
パパは急に知らない人を眺めるような目で僕を見つめた。
唇の奥に見え隠れしていた白い歯は姿を消し、上気した頬は青白い色へと変化を遂げていた。
「何も悪い事をしてないなら、謝る必要なんかないはずだろ…」
彼はそっと俯き、蚊の鳴くような声でそうつぶやいた。
その言葉の後半は階段を駆け上がってくる誰かの足音にかき消されてしまった。
その頃の僕は何をやっても裏目に出てしまい、パパと一緒に生きていく自信を失いかけていた。