3.

 玄関からリビングへと続く廊下はとても細かった。そこから最初に姿を現したのはママだった。
ママは自分の男に会う時は店へ出る時よりもめかし込んで出かける。そしてその日の彼女も例外ではなかった。
大きく胸が開いていて、膝の上よりも短い真っ赤なワンピース。
30歳を過ぎた彼女がその洋服をうまく着こなせたのは、スタイルが抜群にいいからだった。
タイトなワンピースは彼女の大きく膨らんだ胸と細くて真っ直ぐな足を鮮やかに引き立てていた。 整った小ぶりな顔の所々には小さなシワが目立っていたけど、それでも彼女は十分に綺麗だった。
ママは機嫌よさそうに白い歯を覗かせて微笑み、右手に持っている青い紙袋を高々と上げて僕に見せた。
彼女の長い爪にはワンピースと同じ真っ赤な色のマニキュアが光っていた。
「まぁちゃん、ケーキを買ってきたわよ」
ママは紙袋をテーブルの上に置き、籐のソファーに腰掛けて床の上に立ち尽くす僕を見上げた。
でもそんな事は言われなくても分かっていた。 その青い紙袋には誰もが知っている有名なケーキ屋のロゴが印刷されていたからだ。
そんな事よりも僕が気になっていたのは、彼女の後に続いてやってきた背の高い男の方だった。

 「丈二、何してるの? こっちへきて座って」
ママが長い髪を揺らして彼を振り返った。
丈二と呼ばれた彼は部屋へ入る事をためらうかのように廊下とリビングの狭間で立ち止まっていた。 でもママのその一言を聞いて静かに籐のソファーへ近づいた。
キッチンを覆い隠す白いブラインドが春の風に揺れていた。そしてまた金属バットの乾いた音が高らかにリビングの壁にこだました。
ひょろっと背の高い彼は足音もたてずにリビングの床の上を歩き、ママと少しだけ距離を置いてソファーにそっと腰掛けた。
突然の来客に驚いた僕は目の前に座る彼の姿をじっと見つめていた。
彼は品のいいグレーのスーツに身を包み、白いワイシャツのボタンを2つ外していた。
ツヤのある茶色い髪は肩に降りかかるほどの長さで、面長なその顔は青白く見えた。
そして何よりも印象的なのは僕を見つめる冷たい目だった。
何の感情もない凍りついたような視線が自分に向けられているのを知った時、僕は一瞬体中に寒気を感じた。
彼の動きはしなやかで、人に見られる事をすごく意識しているように思えた。
背筋をピンと伸ばして座る姿も、スマートに足を組む仕草も、どれもがすべて芝居じみていた。

 「紹介するわ。息子の雅巳よ」
ママが彼を見つめてあっさりとそう言った。すると僕は急に緊張してきた。
ママはそれまで自分が子持ちである事を隠していた。 そのママが僕の存在をあっさりと認め、息子の待つ家へ堂々と男を連れてきた事にはそれなりの意味があるはずだった。
僕にはどう考えても彼女がそんな事をする理由が1つしか思い浮かばなかった。
ママは彼と再婚するつもりになっていて、そのために彼を僕に引き合わせたのだ。
ママが誰かと再婚するという事は、すなわち僕に父親ができるという事だった。そしてそれは僕にとってすごく大きな問題だった。
更にその時はなんとなく釈然としない思いが僕の心の中を渦巻いていた。
なにしろ目の前の彼はあまりにも若すぎたのだ。
彼は当時33歳だったママよりもずっとずっと若く見えた。彼の年齢がママよりも僕の方に近いのは誰の目にも明らかだった。
どうかすると学生にも見えそうな若い男。
そんな人がママの夫となり、僕の父親になる。僕にはどうしてもそれがピンとこなかった。
「お茶を入れてくるわね」
ママは彼に僕を紹介した後すぐに立ち上がってキッチンへと消えた。
すると白いブラインドで覆われたキッチンの奥からカチャカチャと食器の触れ合う音が聞こえてきた。

 僕はその時になってもまだ床の上に突っ立って彼を見つめていた。
優しさも敵意もない冷たい目に、何故だかすごく惹きつけられた。眼光鋭いその目はしっかりと僕を見上げていた。
僕はママが彼を好きになった気持ちがなんとなく分かるような気がした。彼は若くて綺麗で、同時に妖艶な魅力を持ち合わせていたからだ。
彼は自分の見せ方をよく知っていたのだ。
真っ白な手を引き立てるために太陽の光の差す方へ右手を持っていったり、再びスマートに足を組み替えたり。
そのすべてが計算されたものだという事はすぐに分かった。彼は少しでも自分が綺麗に見えるように自分自身を演じていたのだ。
きっとママはそんなふうにしか振る舞えない彼に親近感を抱いたのだと思う。
彼女は仕事柄いつも綺麗な女を演じていなければならなかったし、いつの間にかそうする事が癖のようになっていたからだ。
そのまま数秒が経過した後、彼が目の表情を和らげて穏やかに微笑んだ。
きゅっと上を向く白い頬は、午後の光に照らされていた。
「お茶の用意ができるまで、少し外へ出て話さない?」
彼の掠れた声がそう言うと、キッチンの奥が急に静まり返った。
ママは僕と彼が玄関へ向かう気配を感じていたはずだけど、僕らが出て行く事を止めようとはしなかった。


 2人でマンションの外へ出ると、僕たちは春の風に晒された。見上げた空は、相変わらず青かった。
マンションの前にはアスファルトの細い道があった。彼は左右を見回して車が来ていない事を確認し、それから僕を伴ってその道を渡った。
道の向こう側には背の高い木が並んでいて、木の下を通り抜けると例の粗末な球場があった。
そこにはさっきまで野球の真似事をしていた子供たちがいたはずなのに、その時もう彼らは姿を消していた。
少し土の盛り上がったマウンドの横には薄汚れた野球のボールが1つ転がっていた。
ほとんど削られてしまった外野の芝生の上には、どこかから飛んできたカラスの姿があった。 背の高い木で囲まれた狭い球場にいるのは、僕と彼とカラスだけだった。
彼は足音もたてずにマウンドへ近づき、薄汚れたボールを真っ白な手でサッと拾い上げた。
僕は彼が腰をかがめてそうする様子を木の陰に立ってぼんやりと眺めていた。
ボールを手にした彼はグレーのジャケットを脱ぎ、それを埃っぽい地面の上にそっと置いた。
マウンドの横に立つ彼が僕を振り返ると、彼の影も僕を振り返った。
2つだけボタンを外した白いワイシャツが、すごく眩しく僕の目に映った。
「キャッチボールしよう」
その返事をする前に、彼はもう僕に向かってボールを投げていた。この時僕と彼の距離は10メートルぐらい離れていた。
ボールは遅いスピードでゆっくりと僕の手元へ飛んできた。そのボールを素手で受け取ると、僕の手に少しだけ泥が付いた。

 薄汚れたボールとその影は、僕らの間を何度も行き来した。
僕の立ち位置はまったく変わっていなかったのに、2人の距離はどんどん縮まっていった。 それは彼が少しずつ立ち位置を前にずらして僕に近づいてきたからだ。
驚いた事に、彼の投球フォームはすごく綺麗だった。
彼がゆったりとしたフォームで右腕を振ると、ボールは僕の胸の前へ真っ直ぐに飛んできた。
でも僕が返すボールは時々コントロールが乱れた。
頭の上を越えていきそうなボールを僕が投げると、彼はジャンプしてそのボールを受け取り、嬉しそうににっこり微笑んだ。
彼は僕がどんなところへ投げてもちゃんとボールを受け取ってくれた。その時の彼はただ単純に僕とのキャッチボールを楽しんでいるかのように見えた。
そんな時がしばらく過ぎると、やがて僕と彼の距離が1メートルに縮まった。
春の風は地面の乾いた土を舞い上がらせた。彼は最後のボールは投げず、直接僕に手渡した。
僕は両手でボールを撫でながら彼の顔を見上げた。
その時彼の額に薄っすらと汗が浮かんでいた。凍りついたような冷たい視線は陰を潜め、彼の目は優しく微笑んでいた。
彼が汚れた右手で汗を拭うと、真っ白な額にわずかな泥が付いた。 彼が汗と泥で汚れた右手をズボンに擦り付けると、グレーのズボンも少しだけ汚れた。
彼にはもうさっきまでの気取った様子がまったくなかった。

 僕は父親とキャッチボールをするのが夢だった。
小学生の時リトルリーグに入っている友達がいつもそうしているのを見て、すごく羨ましいと思っていたのだ。
でも僕はそういう事のできる環境に育ってはいなかった。
目の前の彼は若すぎて、パパというよりはまるで兄さんのようだった。 でもこの人がママと結婚すれば長年の夢だったキャッチボールさえごく普通の日常になるのかもしれないと一瞬淡い夢を抱いた。
彼の真っ白な額にはまだ泥が付いていた。僕はそれを拭い去ろうとして彼の顔に手を伸ばした。 でもその手は彼の手よりもひどく汚れていたようで、僕の手は彼の額をますます汚してしまった。
「ごめん。僕の手、汚かったみたいだ」
僕はそう言って、白いトレーナーの袖で彼の額の汚れを拭いてあげた。すると今度は白かった袖口が少し汚れて黒くなってしまった。
それを知った彼は、クスッと小さく声を上げて笑った。

 僕たちは青い空の下でじっと見つめ合った。
彼の笑顔はあどけない少年のようだった。 僕を見つめる優しい目は明るい光を放ち、ツヤのある真っ白な肌は若さに溢れていた。
この時になって、僕は初めて彼に笑い掛けた。すると彼はすかさずこう言った。
「俺は、君のパパになりたい」
僕はその時すごく驚いて、思わず左手に持っていたボールを地面に落としてしまった。
彼が僕を外へ連れ出した時からママとの再婚話を打ち明けられる事はなんとなく分かっていた。
でも彼はママの事は何も言わず、ただ僕のパパになりたいとだけ言ったのだった。
僕はその事がすごく嬉しかった。
彼の言葉は僕に存在意義を与えてくれたような気がしていた。
それまで自分は余計な者だという意識を持って生きてきたのに、彼の言葉は僕のそんな思いを一気に蹴飛ばしてくれた。
ママが子持ちである事を隠して生きてきたのは、僕の存在が彼女にとってマイナスになるからだと分かっていた。
そして僕は自分の存在がママの足を引っ張るのがすごく怖かった。
彼が欲しいのはママとの暮らしであって、僕との暮らしではないのだと思っていた。
彼がママと結婚しても、僕が余計者なのは変わらないのだと思っていた。
彼がそう言ってくれるまで、僕は本当にそう思っていた。

 芝生の上からカラスが飛び立つと、そこは僕たち2人だけの空間になった。
彼の肩越しに、少し傾いたスコアボードが見えた。
春の温かい風が球場を囲む木の葉を揺らし、太陽に透ける彼の髪を同時に揺らしていた。
その日の空は、ただただ青かった。
「父親参観日とか、来てくれる?」
僕がそう言うと、彼は口の端で笑って小さくコクリと頷いた。
これが僕とパパの物語の始まりだった。