4.

 パパは売れない小説家であり、売れっ子のホストだった。
彼は小説を書く事だけでは食べていけず、生きていくためにホストを始めたのだと僕に言った。
僕はパパと初めて会った時の芝居じみた様子を思い出し、なるほどな、と思った。
クラブで働くママがずっといい女を演じていたように、ホストである彼も仕事としていつもいい男を演じていなければならなかったのだ。
パパは結婚後もホストを続けるつもりでいたようだけど、それはママが絶対に許さなかった。
2人はその事について散々話し合い、結局パパは執筆活動に専念する事になった。 そしてママは暮らしを支えるために今まで通りクラブ勤めを続ける事にしたようだった。
そんな話し合いが済んでパパとママが籍を入れると、僕たち家族の新しい暮らしがスタートした。
仕事に差し支えるという理由から、ママはその後も僕の存在を公にする事がなかった。 そして彼女は同じ理由で自分の夫の存在までも隠す事にしていた。
ママがそうする事で、僕はパパに対して強い親近感を抱くようになった。


 僕たち家族の新居は3LDKの中古マンションだった。
パパと一緒に暮らすようになってからは、放課後家へ帰るのがすごく楽しみになった。
パパはいつも仕事用の部屋でパソコンと向き合って小説を書いていた。 彼はそうやって仕事をしながら毎日僕の帰りを待っていてくれたのだ。
僕はずっと鍵っ子だったから、ただそれだけの事が本当に嬉しかった。

 マンションのエレベーターに乗り、3階で降りて通路を真っ直ぐ奥へ向かうと、3番目に見えてくるベージュのドア。 その横には僕の新しい苗字である 『滝沢』 と書かれた白い表札が掲げられていた。
僕は鍵っ子だった頃の癖がしばらく抜けず、いつも無意識に自分の鍵で玄関のドアを開けようとした。
鍵穴に鍵を入れて右へ回すと、ガチャッという金属音がマンションの通路に響き渡る。
僕はその時になってやっと思い出すのだった。 自分の鍵を使わなくても、インターフォンを押せばパパが中からドアを開けてくれるのだという事を。
それでももう鍵は開けてしまったわけで、僕は結局いつも自分の手でベージュのドアを引いた。
でもそんな事が繰り返されて5日が過ぎた時、僕がドアを引こうとした瞬間にパパの手が内側からドアを押した。
彼はドアの鍵が開くガチャッという音を聞いて僕を玄関まで迎えにきてくれたのだった。
「お帰り、雅巳くん」
その時パパは口許だけで笑った。でも僕を見つめる目はひどく冷たかった。
その目は学校から帰ったばかりの僕をじっくりと観察しているようだった。 僕は何故だかいつもその目に引き込まれそうになった。
眼光鋭い彼の目が僕のすべてを刺すように見つめると、やがてその目は表情を和らげる。
すると僕はほっと安心してやっと家へ上がり込むのだった。

 パパは玄関のすぐ左側にある部屋を仕事場として使っていた。
そこは狭くて日の当たらない部屋だった。
こじんまりした机の上にノートパソコンが置かれ、壁一面を埋め尽くす本棚にはぎっしりと難しそうな本が詰まっている。 その部屋にある物はたったのそれだけだった。
パパはいつもその部屋のドアを開けていた。中をそっと覗くと、パソコンのブラウザが白い光を放っていた。


 中古マンションのリビングはわりと広かった。
大きな窓から光の差す場所に籐のソファーが置かれていて、僕たち家族はいつもそこに集まった。 光の入らない奥のスペースは、持て余されてただガランとしていた。
僕が学校から帰るのは大体夕方4時頃と決まっていた。その時ママはすでに出かけていて、家にいるのはパパと僕の2人だけだった。
パパは僕が帰るといつも仕事の手を休めて何かと世話を焼いてくれた。
中学生の時の僕の制服は、グレーのズボンに紺色のブレザーという物だった。
パパはリビングの明るい所に僕を立たせ、青白い手ですぐに堅苦しいブレザーを脱がせてくれるのだ。
その後彼の指は僕の首に巻かれたネクタイをゆっくりとほどき、それからワイシャツのボタンを必ず2つ外した。 するといつも急に首筋が涼しくなった。
「楽になった?」
パパに笑顔でそう言われると、僕は大きく頷いた。
彼は外出する時はいつもビシッとスーツを着込むけど、家にいる時はティーシャツや柔らかいコットンパンツなどを好んで身に着けていた。
ティーシャツの袖口から伸びるその腕は子供のように細くて真っ白だった。僕はパパの透き通るような白い肌にいつも目を奪われていた。
僕らを照らす日差しは、日を追うごとに夏のものへと変わりつつあった。

 「今日は何かいい事あった?」
パパの掠れた声が広いリビングの壁に反射して僕の耳に跳ね返ってきた。
僕は14歳にしてやっと平凡な幸せを手に入れたのだった。
家へ帰ってすぐにその日学校で起こった事を家族に打ち明ける。 ずっとそうした経験のなかった僕は、それがどれほど幸せかという事をよく知っていた。
「今日は学校でどんな事をしたの? 話を聞かせて」
パパが小さくそう言うと、僕たちはほとんど同時に籐のソファーへ腰掛けた。
窓の手前にはテレビが置かれていたけど、僕たちは決してテレビを点けたりはしなかった。
それから僕は延々と学校で起きた出来事を語り、パパはその話を真剣に聞いてくれるのだ。
ママはクラブでの仕事が終わるといつもパパの勤めていたホストクラブへ行き、何時間も飽きずに彼と話していたという。
パパが聞き上手なのは、きっと長くホストという仕事をしていたせいだ。
僕の話に付き合う事は彼にとって仕事と同じようなものだったのかもしれない。 ただ新しい父親の義務として、年の近い息子の話し相手になってくれていただけなのかもしれない。
それでも僕はちっとも構わなかった。だって、パパは誰よりも若くて綺麗だったから。
彼に会うまでは父親のいない暮らしに淋しさを感じた事もあったけど、父親を選ぶ事ができた僕は結果的にラッキーだったのだ。
「いつか雅巳くんを主人公にして小説を書くつもりだから、どんなに小さな事でも話してね」
「……うん」
「すごくかわいく書いてあげるから、期待して待ってて」
パパはそう言ってそっと僕の髪を撫でてくれた。頭皮に伝わる彼の指の感触はとても心地よいものだった。
妖艶な輝きを持つ彼の目はじっと僕だけを見つめていた。
僕は学校から帰って彼と過ごすこの時を深く愛していた。
時々冷徹な表情を作り出す彼の目も、透き通るような白い肌も、その時だけは全部独り占めする事ができたからだ。