31.

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴ると、静かだった教室の中が小さくざわめいた。
筆入れの中にシャーペンをしまい込む音や、パタンと教科書を閉じる音。
そんな音があっちこっちから聞こえた後、若葉がゆっくりと僕の席へ近づいてきた。
「滝沢くん、今日は天気がいいから外でお昼を食べない?」
子供っぽい笑顔を見せてそう言う彼は、僕にとって初めての本当の友達だった。
若葉は右手に白い布袋をぶら下げていた。その中には彼のお母さんが作った弁当が入っているのだった。


 パパが僕を抱かなくなって一週間が過ぎていた。
学校から帰った時も、夜になってベッドで眠る時も、パパはまったく僕に触れようとしなくなっていた。
それどころか、彼はしょっちゅう家を空けていた。
「僕はパパの事が好きだから、絶対に裏切ったりなんかしないよ」
僕はパパの顔を見るたびにそう言った。そんな時彼はいつも黙って愛想笑いを浮かべていた。
僕は本当にパパの事を愛していたし、彼を裏切るつもりなんかまったくなかった。
でもその思いを口にすると何故だか嘘っぽくなってしまう。
いったいどうしたらこの熱い思いがパパに伝わるのか。僕はずっとずっとその答えを探していた。
2人の関係がおかしくなったのは、パパのパソコンの中に僕の写真を見つけてしまった事がきっかけだと思っていた。
あの時僕はパパの愛を疑ったし、一瞬彼に対して嫌悪感のようなものを抱いた。
敏感なパパはきっと僕のわずかな心の変化に気付いたのだ。
パパがどういうつもりであんな写真を撮ったのか。それは彼に聞かなければ決して分からない事だった。
でも僕はどうしてもその事を聞けずにいた。 その答えによっては本当に僕たちの関係にヒビが入ってしまいそうな気がしたからだ。


 僕と若葉は学校の中庭へ出て白いベンチに腰掛けた。
中庭の真ん中には学校創立者の銅像があり、その付近には緑の芝生が綺麗に敷き詰められていた。
天気のいい日にはそこで昼ご飯を食べる生徒が必ず何人かいる。 僕たちがベンチへ腰掛けた時にはすでに芝生の上に座ってパンをかじっている先輩がいた。
外は暖かくて、春の風がすごく気持ちよかった。その日は素晴らしいピクニック日和だった。
「お腹すいちゃった」
若葉は持参してきた布袋の中から2段になった黄色の弁当箱を取り出し、そのフタを開けて中身をたしかめていた。
弁当箱の中には卵焼きやウインナーなどが色取りよく並んでいた。
「滝沢くん、お弁当は?」
彼にそう言われると、苦笑いをして小さく首を振った。その頃食欲不振だった僕は、昼ご飯を持参する事がなくなっていたのだ。
「じゃあ、半分ずつ食べようね」
若葉はそう言ってまた子供っぽい笑顔を見せた。
僕はしばらくその眩しい笑顔に見とれていた。
まったく濁りのない目と、ピンク色の小ぶりな唇。そして人を幸せな気分にさせるかわいらしい笑顔。
僕はそのすべてを手に入れたいと強く思っていた。

 「これ、目立つ?」
若葉の笑顔をぼんやり見つめていると、ある時彼が人差し指で自分の右頬の真ん中あたりを突いた。
そこには1つだけポツンと赤い点ができていた。
「昨日の夜、チョコレートケーキを3つも食べたんだ。そのせいでニキビができちゃった。これ、目立つかな…」
若葉は甘い物が大好きで、ポケットにいつもキャンディーを忍ばせているような人だった。
彼は俯き、珍しくしんみりした様子で右の頬に存在するニキビを引っかいた。
若葉の小さな悩みはとても微笑ましかった。
空を見上げると、真っ白な雲がものすごい早さで僕の頭上を駆け抜けていった。
「気にする事ないよ。ニキビができても若葉は十分かわいいから」
僕は素早く動く雲が完全に視界から消えるまで見送った。
僕がまだ正気を保っていられたのは若葉がそばにいてくれたおかげだった。
1人になるとどうしてもパパの事ばかり考えてしまうけど、若葉と一緒にいる間は少しだけ気が紛れた。
彼がいなかったら、僕はもうとっくに気が狂っていた。
僕はパパの愛撫に慣れきっていて、彼と一週間もセックスをしないと心も体もおかしくなりそうだったのだ。

 目線を若葉へ戻すと、頬のニキビがあまり目立たなくなっている事に気付いた。
それはニキビが突然消えてなくなったわけではなく、頬全体が赤く染まっていたせいだった。
りんごのような頬を見つめて僕が笑うと、彼は恥ずかしそうに小さな両手で火照った頬を覆い隠した。
彼はかわいいと言われた事に少し照れているようだった。
率直な反応を見せる彼は本当に素直な人だと思った。 ピンク色の唇も、パッチリした目も、真っ赤な頬も、すべてがとてもかわいらしかった。
僕は彼のすべてを手に入れたいと強く思っていた。
でも若葉とキスをしたいとか裸で抱き合いたいとか、決してそんな事を望んだわけではない。
僕はただ、今すぐ彼と入れ替わりたいと思ったのだ。
もしも自分が若葉のように素直でかわいい少年だったら、パパは一生僕を離さないだろうから。

 「あ、そうだ!ねぇ、滝沢くん…」
若葉は両手を頬に置いたままで僕に呼びかけた。彼はその時必死に話題を変えようとしていた。
太陽は地上に温かい光を届けていた。彼のパッチリした目は、日差しを浴びてパパの目と同じように輝いていた。
「ずっと言うのを忘れてたけど、昨日滝沢くんのお父さんが僕のバイト先に来たんだよ」
突然そんな話を聞かされた時は相当驚いた。
でも最初は半信半疑だった。若葉は高校の入学式の時にパパを一度見たきりだったから、きっと人違いだと思ったのだ。
だいいちこの広い世の中でそんな偶然があるはずはないと思った。
よりによってパパが僕の唯一の友達である若葉と偶然出くわすなんて、そんな事はあり得ないと思った。
そう。それが本当に偶然ならば。
「お父さんは缶ビールを2本買って帰ったよ。その時僕がレジを打ったんだ。お釣りを渡した時、掠れた声でありがとうって言ってくれた」
若葉はようやく頬の火照りが引いたらしく、それからゆっくりと両手を下ろした。
一瞬僕の頭に暗い目をした数年前の自分の顔が思い浮かんだ。
突然誰かの笑い声が中庭に響くと、自分が笑われているような錯覚に陥った。
雲のない空は真っ青だった。 再びその空を見上げた時、パパの部屋で見た青いブラウザの光を思い出した。