33.

 フリーライター 岡本豊。
右手で受け取った名刺には、薄い文字でそう書いてあった。
岡本は細い目で刺すように僕を見つめ、低い声で確かめるようにこう言った。
「君のお父さんは、小説家の中沢未来だね?」
彼にそう言われた瞬間、体中から冷たい汗が噴き出した。
中沢未来というのはパパのペンネームだった。 岡本という男は、小説家の中沢未来と僕が親子である事を知っていたのだ。
それは僕とパパが暗黙の了解で公にしてこなかった事実だった。
その時僕はどうするべきか迷った。
僕は彼の問い掛けに首を振ってその場を立ち去る事もできた。 でもパパとの親子関係を自ら否定する事は、それこそ彼に対する裏切りだという気がした。
結果として僕はその問い掛けに頷く事もしなければ首を振る事もなかった。

 やがて岡本は僕の沈黙がその事実を肯定するものと判断した様子でゆっくりと言葉を続けた。
「実は君たちの事で話があるんだ。君のお父さんとは何度か話したんだけど、一向にらちが明かないものでね」
彼はもう一度唇を歪めて微笑んだ。
あたりには排気ガスの香りが充満していた。 歩道の真ん中で向き合う僕たちの横をたくさんの人たちが通り過ぎて行った。
僕はその時すごく緊張していた。僕にとってそれがいい話じゃないという事はすぐに察しがついたからだ。 その一方で、パパが岡本とどんな話をしたのかどうしても知りたかった。
「静かな所で話そう。ここは人が多すぎる」
岡本はそう言って道行く人たちを睨み付けた。
それに従う義務なんかこれっぽっちもなかったのに、僕はすぐに彼の話を聞く決断を固めていた。


 バス通りと平行して走る細い道。
その右側には雑草の覆い茂る広い空き地があった。そして左側には誰かの家を囲む高い塀が存在していた。
空を見上げると、眩しい太陽に目がくらんだ。
「乗って」
岡本は塀の横に駐車してある黒い乗用車のドアを開け、僕に助手席へ乗り込むよう促した。
前後左右を見回してみても、あたりにはまったく人影がなかった。
僕は多少の危険を感じたけど、それでも言われるままにその車の助手席に乗り込んだ。
車の中はとても暑かった。革のシートに腰掛けると、尻の下や背中に太陽の熱を感じた。
運転席へ腰掛けた岡本がカーエアコンを作動させると、ほんの少しだけ涼しい風が僕の頬を吹き付けた。
フロントガラスの向こうには、さっきと同じように陽炎が見えた。
「お父さんの本、随分売れてるね」
岡本は白いシャツの胸ポケットから金色のシガレットケースを取り出した。 そしてタバコを1本口にくわえ、安っぽいライターで火をつけた。
彼が白い煙を口から吐き出すと、フロントガラスの手前に小さな雲ができ上がった。
岡本は地面を照りつける太陽に目を細め、おいしそうにタバコを吸っていた。
「あれはおもしろい小説だと思うよ。随分とリアルだしね。まぁノンフィクションだからそれは当然かな」
全体的に短い岡本の髪がカーエアコンの風を受けて少しだけ揺れ動いていた。 僕はいつかパパの髪にタバコの香りが残っていた事を漠然と思い出していた。

 やっぱりその話か。
僕は話を聞く前から彼が何を言うつもりだったのか半分気付いていた。
彼は僕とパパの物語が事実に基づくものである事を何らかの形で嗅ぎ付けたのだ。
問題は岡本という男がその事実をどのように扱うかという事だった。
彼は運転席側の窓を少しだけ開けて短くなったタバコを火がついたまま外へ投げ捨てた。
僕は膝の上で拳をぎゅっと握り締めた。両の掌にはすでにしっとりと汗が滲んでいた。
一旦開いた窓が再び閉じて車の中が完全な密室になると、岡本の話がやっと本題に入った。
刺すような目がもう一度自分に向けられると、頭が割れるように痛くなった。
「俺は君たち親子の事を全部調べ上げてるんだ。君のお父さんは元ホストで、今は小説家の中沢未来に化けてる。 もちろん君の事だってよく分かってるつもりだよ。一応確認するけど、あの小説は君たち2人の物語なんだろ?」
「…」
僕は今度こそ大きく首を振ってその言葉を否定するべきだったのだろうか。 でも、どうしてもそうする事ができなかった。
その時の僕は岡本の目を睨み付けるだけで精一杯だった。
僕が何も反応せずにいると、彼がフッと小さく鼻で笑った。
「血の繋がりもないのに君たちはよく似てるな。 お父さんに同じ質問をした時、彼もそうやって黙っていたよ。まぁ、沈黙は肯定と認識してるけどね」
「…」
「君のお父さんは義理の息子に手を付け、その様子を生々しく綴って小説にしたわけだ。 俺はこのネタを活字にしようと思ってる。これはちょっとしたスキャンダルだと思うんだけど、君はその事についてどう思う?」
僕は頭だけでなく心にもするどい痛みを感じた。色黒な男の口にする数々の言葉が僕の心を深くえぐったからだ。
カーエアコンの放つ風が彼の短い髪を少し揺らした。
もう一度めまいがして目の前が暗くなりかけた時、岡本がまた唇を歪めて微笑んだ。
「その顔、いいねぇ。君はすごく綺麗だ。お父さんが君を溺愛する気持ちがよく分かるよ。 できる事なら俺も一発お願いしたいね」
そんな言葉を投げつけられた時、突然頬がカッと熱くなるのを感じた。
僕は彼を殴りたい衝動に駆られた。だけど決して挑発に乗ってはいけないと思った。
ここはぐっと堪えて何でもないフリをして、ちゃんと冷静になった時に後の事を考えればいい。 僕は必死に自分にそう言い聞かせ、奥歯をきつく噛み締めていた。
「そんなに睨むなよ。俺は君の敵ではない。 今俺が言いたい事は1つだけだ。 君たちが考えるべき事は、俺が書こうとしている記事をなんとかして差し止める事だ。 俺は君たちの態度によってはそうしてあげてもいいと思ってる。 もちろんその見返りはいただくつもりだけど、まぁ悪く思うなよ。 フリーライターなんてものはヤクザな商売なのさ。 だけど君のお父さんだって似たようなものだろ? 14歳のかわいい坊やを誘惑して、気持ちいい事して、その経過を次々と活字に変えてそれで儲けようっていうんだからな。 結局彼は小説家として成り上がるために君を利用したのさ。 この件について、君は被害者だ。俺はそんな君を世間の晒し者にするのは忍びないんだよ」
「…」
「とにかく家へ帰ってお父さんとよく相談してくれ。俺はもうこれ以上待てない。 お父さんにはそう伝えておいてほしい。それから…」

 彼は狭い車の中でペラペラと喋り続けていた。その低い声は僕の耳を素通りしていった。
フロントガラスの向こうにはまだ陽炎が存在していた。僕はユラユラ揺れる陽炎を見つめてパパの事を思った。
彼は自分を責めているに違いなかった。自分だけですべての事を抱え込み、たった1人で悩んでいるに違いなかった。
岡本という男は肝心なところを履き違えていた。
パパは僕を誘惑したわけではない。僕は自ら彼に身を委ねたのだ。 僕たちは最初からお互いを求め合い、心から愛し合っていたのだ。
僕は被害者なんかじゃなかったし、パパは加害者ではなかった。強いて言うなら、僕たちは共犯者だった。