34.
岡本の話を聞いた後、僕はすぐに家へ帰った。
その時パパは出かけていた。
重厚なドアの前に立ってインターフォンを押しても、彼が僕を出迎えてくれるような事はなかった。
その時僕は自分がどうやって家へ帰ったのかはっきり覚えていなかった。
食事が不規則なせいか、それとも岡本の話に萎えていたのか。
よくは分からないけど体が妙にフラついて、同時に心も揺れていて、どこをどうやって歩いてきたのか全然分からなくなっていたのだ。
誰もいない家の中はとても静かだった。
たった1人で明るいリビングへ行くと、僕はすぐにソファーへ倒れ込んだ。
その時は緊張から解き放たれて脱力していた。フカフカなソファーは車のシートと同じぐらい温かかった。
白いタイルの床を見つめると、そこにパパの笑顔が浮かび上がった。
それは僕の好きな優しい笑顔ではなく、無理して笑っている作られた笑顔だった。
淋しい…
僕は心の中で何度もそうつぶやいた。
以前は学校から帰るといつもパパが出迎えてくれて、僕たちはすぐにソファーの上で愛し合った。
でもその頃パパはしょっちゅう家を空けていたから、必然的に1人ぼっちで過ごす時間が長くなっていたのだ。
本当ならあんな話を聞かされた後、気持ちが熱いうちにその事を訴えてパパの胸で泣きたかった。
すごく淋しくて、心細くて、パパがとても恋しかった。
これでは昔と何も変わらないと思った。
僕は学校で嫌な事があってもその思いをすぐママにぶつける事ができなかった。
それは僕が学校から帰った時いつも彼女が出かけていたからだ。
つらい事や悲しい事を誰にも話せずにいると、そのうちすべてが冷めてしまい、結局その思い出は僕の心の中でくすぶり続ける。
僕はもうそれを繰り返すのが嫌だったのだ。
うつ伏せになってじっとしていると、僕は否応なしに冷静さを取り戻していった。
心の揺れが落ち着くと1人きりで様々な事を考えた。それは僕が昔から何度も繰り返してきた事だった。
僕はパパの温もりを欲して温かいソファーに頬を寄せていた。
岡本は明らかにお金を要求していた。
彼はきっとパパに対して要求金額をはっきり告げていたのだろう。
それがどのぐらいの額なのか僕には見当もつかなかった。でも彼がパパに払えないほどの大金を要求したとは思えなかった。
あまりに過剰な金額を求めても、当事者に支払い能力がなければどうにもならないのだから。
要するにパパが例の記事を本気で差し止めるつもりなら、黙って岡本にお金を渡せば済むはずだった。
ところが彼はすぐにはそうしなかった。そしてそれにはちゃんとした理由があるはずだった。
その理由は、冷静になると案外あっさりと頭に浮かび上がってきた。
たしかにスキャンダルが表沙汰になれば僕とパパは世間の晒し者になるかもしれない。
そしてそれを避けるためにはお金で解決するという方法が手っ取り早いのかもしれない。
でもそれをすれば僕たち2人が自分たちを否定した事になる。
僕とパパはお互いに惹かれ合っていた。だったら2人が愛し合うのは自然な事だった。
僕たちは人に後ろ指をさされるような事なんかしていない。それなら世間に何を言われても堂々としていればいいはずだった。
きっとパパも僕と同じように考えていたのだ。僕にはそうとしか思えなかった。
僕は不意に起き上がり、しっかりとした足取りで空と繋がるガラスの壁に近づいた。
ガラスに両手をついて眼下に目をやると、近所の家がマッチ箱のようにちっぽけに見えた。
最初にそこへ来た時、小さなマッチ箱の並ぶ眼下の景色が僕をすごく喜ばせた。
天空に住む僕たちはこうしてずっとマッチ箱の住人を見下ろし続けるのだ。たったそれだけの事が、僕をたまらなく興奮させた。
「何かを手に入れるという事は、何かを手放す事と同じなんだよ」
僕は引越しの直前にパパが言った言葉を思い出した。
何かを手に入れるためには、何かを手放さなければならない。
僕はパパを手に入れ、天空での暮らしも手に入れた。だったら失う物が大きいのは当然の事だったのかもしれない。
パパは嘘をつく人ではなかったけど、言わなくて済む事は口にしないところがあった。
彼が岡本と接触した事を一言も言わなかったのは、僕を不安にさせないために違いなかった。
僕はまだ愛されている。僕たちはちゃんと求め合っている。その自信を強さへ変える事は、それほど難しくはなかった。
僕はこうしていつか自分の身に降りかかるであろう困難を受け入れる覚悟を決めた。
だけどたった1つだけ引っかかっている事があるのも事実だった。
僕は被害者なんかじゃなかったし、パパは加害者ではなかった。強いて言うなら、僕たちは共犯者だった。
僕たちが犯した唯一の罪はママをひどく傷付けた事だった。
例のスキャンダルが公になればママに迷惑がかかる可能性は十分にあった。
僕はどうしてもその事だけが気がかりだったのだ。
ママの声が聞きたい。
そう思った瞬間、僕は自分の感情に身を任せた。
僕は上着のポケットから携帯電話を取り出し、そこからすぐ彼女に電話をした。
青い空には丸くて大きい綿菓子のような雲が浮かんでいた。
携帯電話を耳に当てた時、ママもどこかで同じ空を見つめていてほしいと思った。
「はい、もしもし」
ママは早々と電話に出た。彼女の声はとても元気そうだった。
「ママ?」
「まぁちゃん、今どこにいるの?」
「家にいるよ」
「そう。あれから連絡がないから心配してたのよ。あの時写真を撮られたとかなんとか言ってたけど…パパとはちゃんと話したの?」
「大丈夫。パパとは仲よくやってるよ」
「だったらいいわ」
ママの明るい声が耳に響くと、胸にズキンとするどい痛みが走った。
僕はまたママを泣かせてしまうかもしれない。僕の決意はママを傷付けてしまうかもしれない。
僕はその時、また同じ罪を重ねようとしていたのかもしれない。
「ママ…最近何か変わった事はない?」
「特にないわ。でも今日はまぁちゃんが電話をくれたから、すごくいい日になりそうよ」
僕は彼女の優しい言葉に打ちのめされた。
また大きく心が揺らぎ、そこに立っているのがつらくなった。
僕はピカピカに光るガラスを片手で掴んで自分の体を支えた。その時、綿菓子のような雲が霞んで見えた。
「ねぇ、西の空に綿菓子みたいな雲が浮かんでるわ。とってもおいしそう」
ママの弾む声がまた僕の心を揺らした。
僕は今ママと同じ空を見つめている。その事はすごく嬉しかったけど、同時に少し悲しかった。
「僕、ちゃんとママを守ってあげるからね」
「え?」
「この先どんな事が起きても、僕がちゃんとママを守ってあげるよ」
「まぁちゃん、急にどうしたの?何だかおかしいわよ」
その後彼女は何度も僕に語り掛けたけど、もう返事をする事はできなかった。
それ以上何かを話そうとすれば、涙声になってしまいそうだったからだ。